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エチオピア: 人権
 

国際アムネスティ レポート 2000 
−このレポートは1999年1月から12月を対象とする。

エチオピア連邦民主共和国 元 首: Mr.NEGASSO Gidada
首 相: MELES Zenawi
首 都: アジスアべバ
人 口: 5880万人
公用語: アムハラ語
死 刑: 保持国  

 各種の情勢の中でもエリトリアとの戦争が重要である。エリトリアとエチオピアはお互いに相手国の人権侵害を非難している。非難の多くの部分は、中立の立場から正当性を証明することが困難であった。しかし、エチオピアは、劣悪な条件でエリトリア人を勾留し、強制送還した。エリトリアとエチオピアの戦争によって多くの死傷者と国内難民が発生した。また、国内に反対派の武装勢力が出現したほか、政府軍による多くの人権侵害が報告されている。反政府勢力の支援者と疑われた者は勾留され、拷問、時には法の手続きを経ないで処刑された。1999年末の時点で1万人もが勾留されており、中には被疑事実や裁判もないまま何年も勾留されている者もある。ジャーナリストなど、政府に批判的な人たちは逮捕された。公正ではない裁判を受けた者もいる。前政権の指導者46人もの殺りくに関する裁判は続いており、1991年から拘束されている2000人以上の官僚の裁判が始まった。

背 景

エリトリアとの戦争
 エチオピアとエリトリアの国境を巡る激しい戦争は、3ヶ月の休戦の後、1999年2月に再び始まった。エチオピア軍隊は、1998年5月エリトリア軍に占領されたBadme地域を取り戻した。その後数ヶ月、紛争となっている国境1000キロのいくつかの地点で断続的に紛争があった。30万人以上のエチオピア兵が配置されているという報告があり、その中には強制的に徴兵された者、18歳未満の者がいるとも言われている。双方で何十万人もの兵士が殺害され、何百人もの兵士が負傷したと報告されている。1998年の休戦協定に反して行われた空撃で双方の一般市民も数名殺害された。20万人以上のエチオピア人が移住を余儀なくされ、劣悪な環境の中でキャンプ生活をしている。エチオピアは国際赤十字委員会(ICRC)に、エリトリア人捕虜との接触を許可した。  国連安全保障理事会決議など、長期的な停戦と和平のための国際的、宗教的仲裁の試みは、1999年末までの時点では成功していない。7月、双方がアフリカ統一機構の停戦・和平計画を受け入れたものの、紛争の勃発が続き、12月にはエチオピアが正式に和平計画の履行条件を拒否した。  エチオピアは、エチオピア人に対するエリトリアの人権侵害を繰り返し非難した。1999年の初頭、3000人以上のエチオピア人がエリトリアからエチオピアへ帰国し、戦争が開始されて以降、帰国したエチオピア人の数は2万5000人以上に昇る。しかしこのエチオピア人たちが、エリトリア政府によって追放された様子はなく、エリトリア国内にいるエチオピア人が虐待されているとのエチオピアの主張の殆どは、中立の立場からは確認されていない。  7月、ルワンダにおいてアフリカ人と民族の権利委員会(the African Commission on Human and peoples‘ Rights)は、戦争中の人権侵害に関する意見を双方から聞いた。審判は保留となったが、両サイドが停戦を守り、お互いに対する全ての政治的宣伝活動を停止すること訴えた。

他の紛争
 いくつかの地域で政府は反政府武装勢力とにらみあっている。オロモ解放戦線(Oromo Liberation Front、OLF)がいるオロモ地区、オガデン国家解放戦線(Ogaden National Liberation Front、ONLF)とその同盟であるイスラムグループAl Itihadがいるソマリ地区で紛争が報告されている。 エチオピア軍は、Al  Ltihadの戦士をソマリアのGedo地区まで追いやり、他の国境地域でソマリ派を援護した。エチオピアはソマリ各派との間で平和協議を促進し、ソマリ派のリーダーHussein AideedがソマリアにいるOLF軍を武装解除し、追放をすると約束したのと引き替えに、10月にエチオピア軍をソマリアから引き上げることに同意した。1999年初頭、ソマリアでは、300人以上のOLF兵士がエチオピア軍によって捕らえられ、エチオピアに連行後、Ziwaiに勾留された。

選 挙
 8月、政府は2000年5月に議会の選挙を実施すると発表した。候補者が登録されたが、野党はほとんど参加せず、殆どの候補者は首相Meles Zenawi率いるエチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian peoples‘ Revolutionary Democratic Front、EPRDF)連立与党とつながっていた。脅迫や嫌がらせ、メンバーの逮捕、事務所の閉鎖などが行われたと主張する野党もいくつかあった。国外に追放された政治グループは選挙に参加することを拒否し、反政府武装グループは除外された。政府は、外国からの選挙監視団を受け入れるつもりはないと声明を出した。

人権委員会とオンブズマン
 正式な委員会とオンブズマン設立のための法案は、1999年半ば議会に提出されたが、同年中には採択されなかった。

国外追放と勾留
 エチオピアはエリトリア人の大量追放政策を続けた。1月と2月には、6300人以上のエリトリア系の人々を、残虐、非人道的、侮辱的な形で追放し、エチオピアの市民権を剥奪した。1999年の間に、エチオピアにいるエリトリア人数千人が、自発的に国際赤十字委員会に帰国の登録をした。7月、2350人のエリトリア人が集められ、バスで国境まで連れて行かれた他、10月から12月迄の間に3000人以上が追放された。そういったエリトリア人は、交通費を負担したにもかかわらず、食料や財産の持ち出しはほとんど許されなかった。必ずしも自発的に出国した者ばかりではなく、家族が意図的にバラバラに引き裂かれることもあった。数ヶ月間投獄された者もいた。  Bilateの駐屯地に勾留された1200人近いエリトリア人は、国際赤十字と接触することが許されたが、家族との面会は認められなかった。6月、キャンプにいたエリトリア人は、Dire Dawa の近くの、Dedessa駐屯地へと移された。Dedessa駐屯地の条件は非常に劣悪であった。マラリアなどの病気で死亡する者もあり、虐待されたり、治療を受けさせてもらえなかったとの訴えがある。伝えられるところによるとエチオピア当局は、エリトリア人が第3国へ出国することを認めると言ったにもかかわらず、出国できたものはわずかだった。2月には38の大学生が解放され、エリトリアに帰国した。6月にMalawiに行った40人以上のエリトリア人は強制的に連れ戻されて再び勾留された。このうち一人は逮捕から逃げようとしてMalawiの警官によって射殺されたが、これは逮捕を逃れようとした時のことであったという。

政治的な投獄
  何百人という人が、政治的な理由で逮捕され、その殆どが被疑事実や裁判なしに投獄され、中には投獄の事実さえ秘密になっている者もいる。政治犯もいる。

裁判ぬきの投獄
 1月、Abula Obangを含む野党のガンベラ族民主会議(Gambela peoples‘ Democratic Congress)の18人が、南西部のガンベラ地区で逮捕された。1999年末になっても、メンバーは被疑事実も明らかにされないまま勾留されている。
 11月、12月には南西のOmo地区で、Wolaita族、Mali族やAree族の人たち500人ほどが被疑事実もないまま勾留された。これは、政府が新しく作った言語を使うことを強要したのに対し、平和的な形で反対したためである。  多くの人々が反政府武装勢力、特にOLFに関わったという疑いで逮捕された。Nekemteにあるエチオピア赤十字の職員であったMosissa Duressaは8月から2ヶ月間勾留された、政治犯である。8月に逮捕された医者のTassew Begashewは、1999年末現在も勾留されたままであった。 5月、Sidama地区の幾人かの反政府活動家が、Sidama解放運動に関与したことを疑われ、はっきりした被疑事実も知らされないまま勾留されている。報道によると何百人というSomali族が、ONLFに関与したとの疑いで逮捕された。Somali自治会の会長であったLid Dahir Farahは9月に逮捕され、1999年の末になっても未だ被疑事実もないまま勾留されている。

政治裁判
 4月、多くの長期勾留者に対する裁判が開始され、野党である全アンハラ人民機構(All Amhara Peoples Organization、AAPO)のWondayehu Kassaと3人の役員、18人のメンバーが、1996年の刑務所襲撃事件に関与した武装勢力と共謀したとして有罪判決を受けた。彼らはアジスアベバの高等裁判所で禁固3年から20年の判決を受けた。被告人ら数人は自白を撤回し、拷問をされたと主張したが、裁判所はその主張を無視した。このAAPOの役員(判決の刑期を勤めた後釈放された)ら被告人らは政治犯であると思われる。
 AAPOの議長であったAsrat Woldeyes教授は、裁判の中心的な被告人であったが、1998年12月に病気治療のため海外に行くことを許され、5月にアメリカ合衆国で死亡した。アジスアベバで行われた彼の葬儀の際、1人のデモ参加者を警官が射殺した他、数人を殴りつけ、一時的に勾留した。 6月、エチオピア教員協会(Ethiopian Teachers Association)の会長で、元大学の講師であったTaye Wolde Semayatは、他の4人共に1996年に武装謀議の罪で、アジスアベバにて有罪判決を受けた。彼は懲役15年の判決を言い渡されたが、彼も政治犯のようである。2人の被告人が、拷問によって自白させられたと言い、自白を撤回した。6人目の被告人であるKebebe Destaは、4月に留置所の中で死亡したが、これは適切な医療行為を受けられなかったためであるとのことだ。 政府を批判し、1997年に汚職と不正管理の疑いで逮捕されていた12人のソマリ地域会議(Somali Regional Assemly)のメンバーに対して、同年10月Dire Dawaの高等裁判所は共謀武装で有罪判決を言い渡した。彼らは不公平な裁判の後、懲役3年を言い渡され、刑期を勤めた後10月に釈放された。
 OLFとの共謀武装したとされる60人以上のOromos族の裁判は1997年アジスアベバに始まり、未だ非公開で続いている。被告人の中には7人の人権活動家と2人のジャーナリストも含まれている。3人の被告人は4月に仮釈放された。何人かの被告人は、拷問されたと主張した。オロモ救済協会(Oromo Relief Association)の事務局長であるAbbisu Beyene、セーブ・ザ・チルドレン基金の会計士であるGabissa Lamessa、ジャーナリストのTasfaye Deressaなど、少なくとも10人の被告人は政治犯である。

ジャーナリスト
 政府は、民間報道の規制を続けている。4月、1995年からアジスアベバで勾留されていたSamson Seyoumがついに裁判を受けることになり、暴力を教唆したとして報道法に基づき、懲役4年半を言い渡された。彼は、刑期を勤めて釈放された。Aberra Wogiは12月に懲役1年の判決を受けた。その他の2人のジャーナリストが1999年に逮捕され、裁判を待っている。

拷問と虐待
  政治犯の囚人に対する拷問と虐待の報告が続いた。拷問は、警察署や囚人が「行方不明になる」仮の拘置所で行われた。裁判となった場合でも、裁判官は拷問の告発に関する調査をしなかった。刑務所の状況は、全体的に苛酷であり、政治犯の囚人は適切な医療を受けさせてもらえず、身柄を拘束されたまま死亡した。また、Hararにある軍警察刑務所の地下に秘密の房があり、起訴もされていない人が150人も、おそろしい状況で留置されており、中には何年もの間勾留されている者もいるという報告がある。

Dergueの裁判
 1994年から始まった46人の前軍事政府(Dergueと呼ばれる)のメンバーが行った大量殺りくと人道に対する罪の起訴は続いている。同じような罪で起訴され、1991年から勾留されている2246人の元官僚に対する裁判もいくつか始まった。2人の被告人は、殺人と拷問で有罪判決を受け、懲役刑を言い渡された。一方、2人の被告は欠席のまま裁判を受け、11月に死刑を言い渡された。18人の元空軍パイロットは参戦するため8月に釈放された。  Mengistu Haile Mariam前大統領は亡命先のジンバブエから南アフリカを訪れた。17年の任期中に彼が犯した大量の人権侵害の罪で裁判にかけようという国際的な要求がある。彼がジンバブエでは明らかに刑事処罰を免れていることをAI(アムネシティ・インターナショナル)は批判し、彼を裁判にかけることを求めた。ただし、彼がエチオピアに戻っても死刑にはしないこと、正式な裁判手続きを尊重するという条件のもとでである。

裁判を経ない処刑
 反乱を起こそうとする者を支援していると疑われた者が裁判手続きを経ないでの処刑されているとの報告があるが、その詳細を確認するのは困難である。

死 刑
 死刑の執行は報告されていない。1991年から多数の人が死刑判決を受けているのに加え、1999年、殺人罪で死刑判決を受けた者が数名いた。

最新情報

ジャーナリスト達
 1999年の初頭の段階で11人のジャーナリストが、それぞれの仕事が原因で留置された。そのうちの3人が刑期を終えて釈放された。

被拘置者
 昨年は1万もの人が主にOromoとSomali反政府軍派を支援した疑いで勾留され、被疑事実もなく、裁判など行われていない状況のまま留置されている。赤十字との面会は許されている。その中には政治犯もいる。1992年のZiwaiで勾留されている285人のOLF兵士に対する裁判は進展していない。政治犯が何人か釈放されたが、おもに仮釈放である。反政府活動家が数名1996年、強制的にSomalilandやDiboutiから引き戻され、勾留されたままであった。

失踪
 拘置所に密かに勾留されていた人々が「再び現れた」が、1992年から1995年に「失踪」した多くの反政府活動家が生存しているという希望は殆ど無い。

アムネインターナショナル国別レポート
エチオピアとエリトリア:武力紛争の1年における人権問題

 


新曲「ルワンダの歴史を繰り返さない」ソロモン・テカリグ
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