1999年人権に関する慣行報告書
米国国務省人権労働局発行 2000年2月25日
エチオピア
エチオピアは一元的な政府から連邦制度への移行を続けている。首相のMeles Zenawiはエチオピア連邦民主共和国を率いている。この政府は長期にわたる残虐な内線の後の暫定政府に変わって1995年に政権を執った。ほとんどの野党勢力は選挙をボイコットした。第一党であるエチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian peoples‘ Revolutionary Democratic Front、EPRDF)とつながりのあった候補者は国政選挙でも地方選挙でも大勝利を納めた。選挙監視人たちは選挙がおおむね自由公平に行われたと判断したが、異常事態もあったことを指摘した。与党連合であるEPRDFとつながりのある官僚が政府を支配し、EPRDFの中の主要な派閥は、ずっと首相Melesの属するティグレイ人民解放戦線(TPLF)である。連邦制の地域は主に民族別に構成され、自治を強化し、財政や政治についてもかなりの自治権がある。しかしながら中央政府と地方官僚、また様々な司法機関の関係には一貫した調整がなく、連邦の政策と矛盾するような地方の動きも見うけられる。中央集権的な政権、貧困、内戦、民主主義の概念になじみがないことなど、長い歴史の結果、連邦制度を実行することが複雑になっている。連邦政府が地方レベルで憲法上の権利を守らせる力は限られている。地方行政、警察、司法制度は全国的に弱体である。司法制度は弱く、過剰な仕事を抱えているが、自立的な動きも継続している。
いくつかの分野で改善が見られるものの、同国政府の人権擁護に関する実績は全般的に不十分で、深刻な問題が残っている。治安維持軍が司法手続きによらない殺人を行っている。11月には治安維持軍が、Sodoにおいて、新しい言語を学校での教授言語として強制する政策に反対する民衆蜂起と抗議行動を弾圧し、10人以上を殺害した。治安維持軍は被拘置者を殴り、虐待し、恣意的に市民を逮捕勾留することもある。刑務所の条件は劣悪で、裁判前の勾留期間が長期にわたることは相変わらず問題である。また政府は、OLFに共感している、または参加したと疑われる人々を相変わらず勾留している。また適正な手続きを踏まないまま、エリトリア人やエリトリア系のエチオピア人を勾留し、退去させている。1998年5月の国境紛争勃発以来、6万7000人以上がエチオピアからエリトリアへと出国した。そのほとんどは退去強制となったもので、自発的に出国したものは少数である。1200人のエリトリア人、及びエリトリア系エチオピア人男性が勾留されている。国の安全保障上の配慮からであるとはいえ、追放や勾留によって恣意的な逮捕勾留、亡命、家族の強制的な分離、国籍問題、勾留や国外追放された者の困難と経済的損失など、非常に重要な問題が生じる。司法制度には資金と研修を積んだ職員が不足しており、憲法に規定された保護を市民に提供する能力に限界がある。政府は増員した民事及び刑事裁判官の研修を継続しており、彼らを地方の裁判所に派遣している。最高裁は単純な民事訴訟を担当する民事裁判官の数を3人から1人に減らし、司法的な解決の迅速化につとめている。同国政府は市民のプライバシーの権利を侵害しており、捜査令状に関する法律は一般的に言って守られていない。
恣意的な逮捕・勾留・国外追放
エチオピアとエリトリアの間で紛争が勃発してから、エリトリア系の住民が勾留されている。政府はこの勾留を治安維持のためと正当化している。年末の時点で、エリトリア系の住民約1200名が、勾留されている。また退去される前に数ヶ月間にわたって警察署に勾留されるものも数百名いるという信頼できる情報もある。国際赤十字社は警察署に勾留されていると言われる人々に接触することを許されない。年末の時点でエリトリアとエチオピアの間の紛争の際とらえられた捕虜が512人まだ勾留されている。4月になって、政府はエリトリア以外の国へのビザが取れたエリトリア人勾留者を釈放し始めた。約90人がエチオピアを出国し、ウガンダやマラウィなど主に他のアフリカの国へ行った。8月には25人のエリトリア人勾留者が偽のマラウィ行きビザを入手し、予定通り飛行機でマラウィへと出国した。彼らはマラウィで拘束された。そこでエリトリアへの通過を提案されたが彼らはこれを拒否した。そこでマラウィの当局はこの勾留者たちを強制的にエチオピアへ送り返した。マラウィ当局との争いの中で少なくとも一人の勾留者が死に、6人がけがをした。(Section 2d参照) 国外追放は違法であり、憲法では誰も自分の意志に反して国籍を奪われないと定めている。しかし1998年5月のエリトリアとの紛争勃発以来、政府は国の安全保障を根拠に、6万7000人ものエリトリア人と、エリトリア系エチオピア人を退去させた。その中には自発的にエリトリアに帰国した者もいるが、大多数は強制退去となった。退去命令はアジスアベバの治安・出入国管理・難民問題局(Security,Immigration、and Refugee Affairs Authority、SIRAA)から発せられた。このような政府の措置は公正な手続きについて深刻な疑いを引き起こす。強制送還の対象となることについて事前の裁判もなく、弁護士を選任する権利も許されず、また異議申し立ての機会も非常に限られていた。しかもエリトリア系エチオピア人の国籍問題はまだ決着が付いていない。世帯主は警告もなく勾留され、陸上輸送で48時間のうちに退去させられた。残った家族は資産を売却するための時間を恣意的に定められ、しばしば推定年収や政府の銀行ローンの残額などに基づいて出国税を払わされた。国際赤十社は、同国政府から国際赤十字社への通知が終了した9月までほとんどの国境通過を監視した。9月以降4000人のエチオピア人とエリトリア系エチオピア人が退去となった。その際、安全の確保、保健衛生、食料も与えられなかったと言われている。中にはエリトリア到着と同時に入院した者もいるという。1993年のエリトリア独立国民投票に参加した18歳以上のエリトリア人とエリトリア系エチオピア人は全員、8月に治安・出入国管理・難民問題局(Security,Immigration、and Refugee Affairs Authority、SIRAA)に登録し、住民申請書を記入するよう義務づけられた。登録後、申請者はIDカードと6ヶ月間有効の住民許可を受け取る。 |