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エチオピア: 人権
 

エチオピアにおける人権問題の状況


第10号報告
1996年9月

1.序章


EHRCOが設立されて活動を始めてから、現在で5年が経過した。しかし、今だNGOへの登録を認可されていない。協会がエチオピア商業銀行(CBE)に有する口座はまだ凍結されたままである。EHRCOは2件法的訴訟を起こし、関連政府機関にEHRCOを公的に登録するように申し立て、また、CBEに預金してある合計676,516.16ビルの凍結を解くように申し立てている。しかしながら、アジスアベベの法廷組織の再構築や裁判官の解雇に阻まれてこの2件の訴訟はまだ決定を得ていない。


基金を銀行に凍結されたことによる財政的な制約にも関わらず、EHRCOは、「EHRCOの報告集」という本を出版している。この本の中に集められているのは次の報告である。過去5年間のEHRCOの定期報告、特別報告、緊急報告、新聞発表、人権問題についてスイス大使、アメリカ大使との間に交わされた書簡集、EHRCOの議長が国際会議で各国大使や多数の機関の代表の前で行った演説の内容、EHRCOの第五報告に対する暫定政府内国省の反応などである。この本は国内外に配布されている。EHRCOはまた70ページのポケットサイズの本を出版している。この本はアムハラ語で書かれ、基本的人権についての説明がなされている。さらに、EHRCOは月間新聞をアムハラ語で発行している。その題名は「メリクテ・イセメグ」。 ここでは人々が自らの権利について知ることが出来るように世界人権宣言の各条項について議論がなされている。EHRCOは他にも、優れた教授陣を招いて様々な人権問題についての講義を行うなどして、セミナーや公開討論会を開催している。


過去5年間に、様々な国際的な人権団体や、宗教団体、難民を扱う機関、その他の政府代表がEHRCOの本部を訪れた。この中にはスウェーデン新大使のカール・オロフ・セダーブラッド閣下、米国新大使のディビッド・シャイン閣下が含まれている。


1995年9月から1996年8月の間、EHRCOは2927名の個人に関する苦情を受けた。これらの苦情は法的手段を踏まない不公平な殺戮、拷問、体罰、逮捕・行方不明、非合法な解雇、財産の押収、そしてその他の人権侵害などである。EHRCOによって確認された苦情は以下にまとめられる。(この報告には人権侵害の加害者の名前が述べられていることをEHRCOは確証したいと希望している)


1. 非合法殺戮


政府による治安部隊は市民を非合法的に殺戮している。これは世界人権宣言の第3項「人間は誰もが生存の権利、自由の権利、安全の権利を有している」を冒している。同様の人権規定は市民権・政治的人権における世界誓約第6項(1)「全ての人は生れつき生存の権利を有している。この権利は法によって守られる。生命を任意に奪うことは誰にも許されていない」の中にも述べられている。FDRE憲法にも、第14項と第15項に同様の権利が保証されている。


1.1 シフタに関連があるという理由で殺されたといわれる人々


以下の人々は ベルハヌ・H/ミッシェルと呼ばれる反逆者に関連があるとの理由で惨殺され、南部エチオピア人民管理地域のシェカチョ地区に廃棄され、野生動物にその死骸を食べられた。

犠牲者名 シフタとの関係 殺害日 殺害場所
2.11 マミテ・ウェボ(65歳) 母 1995年5月1日 ゲマドロ林     (シェカチョ地区)
2.12 エンデシャウ・ディマ 叔父 >> >>
2.13 ウォルク H/ミッシェル 兄 >> >>

上記3名の犠牲者を殺害した疑いのあるゾナル行政地方議会のメンバー7名を逮捕してこの殺戮を調査しようと試みたのだが、容疑者の一人が当時のゾナル地方議会経済部門の部門長であり、現在FDRE人民代表法務議会のメンバーであるために圧力をかけられて失敗した。解雇処分にあった者もいた。たとえばアレム・チゴ氏は地区公務検事であり、警察に事件を調査するように命令した。シャチャチェウ・シェノ氏はゾナル高等裁判所の議長裁判官であり、7名の容疑者の逮捕令状に署名した人物である。これらが原因で3名の虐殺は今だ調査されておらず、犯人は今日に至るまで裁判にかけて処罰されていない。


2.2 独裁的に殺された人々


2.2.1アンワル・ネガシュという名の若者が警部補とタガイによって1995年6月11日午後4時30分に射殺された。彼はハラレの街で殺害された。殺害場所はケフテグナ02、ケベレ14(ハラリ行政地区)。犯人はまだ裁判にかけて処罰されていない。

2.2.3 テスファヒュン・ウォルクネー(チェファウ)は兵士によって、オロミヤ行政地区のナザレス町ケフテグナ02、ゲベレ09にて1995年8月5日午後6時に殺害された。殺害者はまだ裁判にかけて処罰されていない。

2.2.4 20歳のビンヤム・ベケレは警官によって1995年7月11日午後4時にアヂスアベベのウォレダ01、ケベレ01において射殺された。その警官は今だ裁判にかけて処罰されていない。

2.2.5 イブサ・アヅグナ氏と友人テナ・ウォイェッサ氏は1996年8月30日の朝に警備員によって射殺された。両名はアジスアベベのウォレダ11、ケベレ01、住宅番号694にて殺害された。彼らを殺害した警備員は死体を車まで引きずっていき、そのまま持ち去った。さらに、その警備員は目撃者を拳銃で脅し、家の中に入るように強制した。犠牲者の死体は1996年8月31日にメネリク第2病院で発見された。イブサ・アヅグナ氏はビリスマ・バンドでの歌手及びギター演奏者であった。殺害者に対しての法的措置は何ら行われていない。

2.2.6 テウォドロス・フェカデ、アジスアベベのウォレダ17、ケベレ24、住宅番号777の住人であったが、1995年10月12日午前6時にウォレダの警官に射殺された。彼の母親は27ビルを支払い、息子の死体をメネリク第2病院から引きとって1995年8月13日に埋葬した。


2.2.7 セブシベ・ゲザヘグネ、アジス・アベベのウォレダ17、ケベレ17にあるボーレ上級第二学校の12年生であったが、1996年2月18日にタガイによって胸を撃たれて殺害された。彼が殺害されたのは午後11時半であったが、彼は宴会の準備に忙しくしていた時であった。彼は22歳の若者で、かつては余暇を利用して貧しい両親を助けるために働いていた。


2.3 OLFを支持した疑いで殺害された人々


以下の人々はオロモ人民民主機構(OPDO)の武装したメンバーによって殺された。オロモ解放戦線(OLF)の支持者であると疑いをかけられたのが原因である。
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犠牲者名 殺害日 殺害場所
2.3.1 ジャラ・ウデッサ氏 1996年1月12日 ハゲレ・マリアム、ダダ・ブジPA(ボレナ)
2.3.2 ロベ・ガナレ中尉 1996年2月15日 ハゲレ・マリアム、ダダ・ブジPA(ボレナ)
2.3.4 ガヨ・ガラノ氏 1996年2月15日 ハゲレ・マリアム、ダダ・ブジPA(ボレナ)
2.3.5 カテロ・ワジ氏 1996年2月19日 ハゲレ・マリアム、ガレナPA(ボレナ)
2.3.6 ジェンゲ・シャノ氏 1996年2月23日 バルグナPA(ボレナ)
2.3.7 W/ro アェムネシュ・ファンツ 1996年2月25日 ハゲレ・マリアム、メルカ・ソドPA(ボレナ)
2.3.8 ホテッサ・アナロ氏 1996年3月11日 ハゲレ・マリアム、ブルジジPA(ボレナ)
2.3.9 シャグラ・エレマ氏 1996年2月23日 ハゲレ・マリアム、ブルジジPA(ボレナ)


2.4 反逆を計画した疑いで殺害された人々ハイレ・ゲェルチャ氏はメタ・ロビ・ウォレダ、シバ・ケチェマPA(西ショア)の在住であったが、1996年8月12日にゴロ・マコの町で射殺された。殺害者はウォレダの代理行政官と、ウォレダOPDO支部長であった。ハイレ氏は自分の貧しい父親を支えるために仕事を探そうとして土地を離れたのだが、それを反逆の試みと取られて殺害されたのである。父親にとってはたった一人の息子であった。


2.5 砲弾で殺害された人々


1996年8月1日午後8時30分、兵士たちによってデッセの近くで砲弾が放たれ、カラ・グツ・ケベレの家に命中した。そして、お祈りのために家に集まっていた下記の人々を殺害した。
2.5.1 ハッセン・アデム
2.5.2エシェツ・カサ
2.5.3ヌル・アーメド
2.5.4 ハッセン・イビレ
2.5.5 アシャビル・イメル


2.6. 砲弾によって負傷し、デッセ病院に収容された人々
2.6.1. ファテ・モハメド
2.6.2. セイド・フセイン
2.6.3. モハメド・フセイン
2.6.4. ケヂル・ケマル
2.6.5. セイド・ケマル
2.6.6. モハメド・イメル
2.6.7. イェソウフ・イビレ
2.6.8. ファテ・アマヌ
2.6.9. ハッセン・アマヌ


2.7 自衛軍による独断的な射撃と負傷者

ゲレツ・アベはヅグダ・ウォレダ(メギ町)、ケベレ03に住む元警官であるが、メルカ・オダという場所で馬車から下りて歩いているところを警告無しに防衛軍のメンバーによって胸を撃ちぬかれた。これは1996年3月6日午後2時に起こった。ゲレツ氏はEHRCOに対して、不当に警察署から解雇されたと苦情を申し立てていた。(下記6.5参照)


3. 殴打され拷問された人々

世界人権宣言第5項、市民権・政治的人権における世界誓約第7項、FDRE憲法16項及び18項(1)、これら全ては「誰も拷問や残酷で非人間的もしくは下劣な扱いや刑罰を行うことは出来ない」と規定しているが、それに反して治安部隊は下記の人々を拷問した。


3.1 デレジェ・テゲナウ氏はコンボルシュとキチェチュPA、シヤ・デブル、ワユ・ウォレダ(北ショア)の農民であったが、1994年6月26日午前7時に、武装した軍の隊員がこの平和な農民の家を取り囲んで彼を逮捕した。家を捜索した後、軍隊は彼をデネバ・ウォレダ地方議会事務所に連行した。そこで隊員は彼を独房に閉じ込め、両手と両足を縛り彼を腹ばいに寝かせて棒と革の鞭で彼を殴りつけた。隊員は彼にウォレダ地方議会から彼が全アムハラ人民機構(AAPO)のメンバーであると聞いたと言い、キャプテン・ネガシュ・アベベという名の反逆者と連絡を取っていると聞いたと言った。隊員は彼にどこに武器を隠しているのか話せと要求し、要求に応じるように彼を殴打し続けた。この間、デレジェは右目を打たれ、その結果視力を失った。


3.2 タガイ・イスマエル・イェソウフ・アルメルディは1989年にベニシャングル人民解放運動(BPLM)に参加した。1989年からデルグが失権するまでの間、タガイ・イスマエルはBPLMのメンバーとして戦っていた。彼はまた暫定政府防衛省の元でBPLMの大隊指揮官としても仕えていた。 この時、彼の指揮する大隊のメンバー達が彼らの人権の保護を求めたのである。彼はメンバーの要求を上官に通し、これによって、彼はツソレ・キャンプに留置され、4ヶ月間重労働を強いられたのである。1994年8月に、彼はBPLM軍隊から除隊させられた。解雇のすぐ後に、彼は他のメンバーと共にベニシャングル及び西エチオピア人民民主政党(BWEPDP)を設立した。1994年9月9日、彼とレシュデゥ・アーメド氏、アルマム・ムスタファ氏はコモシャ町からアソサに向かうところであった。そこで彼らは支持者の集まりにBWEPDPの政治プログラムについて説明し政党の支部事務所を作ろうとしていた。途上で、タガイに率いられたBPLMの武装メンバーに出会った。彼らは武器で脅し、彼らの車を止めさせた。それから彼らはツォレ軍隊キャンプに連れて行かれ、両手両足をまとめて縛られて腹ばいに寝かされた。彼らは足と手の間に木の棒を通されて吊るされ、3時間の間、振り子のように振られ続けていたのである。タガイ・イスマエル・イェソウフ・アルメルディは3ヶ月と15日間医療手当てや十分な食事無しにこのキャンプに留置された。彼の右手はBPLM兵士による拷問の結果、萎縮してしまった。


3.3. デミッセ・アバディガ
3.4. アベベ・ギンド
3.5. テショメ・G/ツァディク


これら3名はカフィチョ地区のギムボ・ウォレダに在住していた商人である。テプブチ小作農者協会(PA)の生産者協同組合の屋根の鉄製波板が何者かによって盗まれた時、ウォレダ地方議会の議長代理とウォレダ警察の3名が上記の商人3名を盗難品受理の疑いで逮捕し監禁した。1995年6月27日午後2時に、3名はウォレダ警察署からウォレダ地方議会の会議室に連れて行かれ、衣類を脱がされて鞭で情け容赦なく打たれ、盗んだ波板を購入したと告白するように強制された。鞭打ちはウォレダ地方議会の議長代理とウォレダ警察官3名によって行われたと報告されている。


3.6. テゼラ・ゼウデはイェキ・ウォレダのマラリア管理事務局の局員であった。1995年10月21日の夜、事務所から顕微鏡が盗まれたことの合図として警備員が銃を発射した。そしてウォレダ警察が到着して警備員を拘留した。彼らはまた、警官を事務所に送り警備させた。テゼラ・ゼウデが月曜の朝に事務所に行くと、自分の使っていた顕微鏡が盗まれていることがわかった。すぐに警察が来て彼を取り調べのために警察署に連行したが、彼は取り調べを受けることなく昼も夜も他の囚人と過ごさせられた。10月28日の午後9時に、報告によると警官3名がテゼラを取り調べ室に連れて行き、彼の衣類を脱がせて両手をナイロン製の縄で縛り彼を引きずり顕微鏡を出せと言ったとのことである。警官は彼の足と背中をゴム製または木製の棒で殴打し彼に重傷を負わせたと報告されている。その後に、しかしながら、実際には警備員が顕微鏡の窃盗犯と共謀していたのであることが判明し、テゼラは罪もなく拘留され無意味な拷問を受けたのであった。


3.7. カサイェ・リメニーはテピ町の電話支局のスタッフであった。彼が1997年11月13日の朝に事務所に着いた時彼は、事務所の中にある囲いのワイヤーが切られ中の太陽電池充電器のガラスが持ち去られているのを知った。彼がウォレダ警察に盗難届けをしたとき、ウォレダ警察の司令官が彼をそのまま監禁した。10月15日午後9時に、司令官と4名の警官がカサイェを取り調べ室に連れて行き、彼の両手をナイロン製の縄で縛り背中と足の裏を何度も殴打して彼に盗まれたガラスを出すように強制した。しかし、一般市民から得られた情報により真犯人は10月19日に逮捕され、10月26日には隠し場所から盗んだガラスが出て来たのであった。拘留と無意味な苦しみからカサエが解放されたのは結局12日後のことであった。


3.8.ゲレルチャ・デガガは西ショアのシバPA、メタロビ・ウォレダの農民である。彼の息子が他の土地に職を探しに行った後、1996年1月12日に武器を携帯したOPDOのメンバーにより彼は息子が反乱したので居場所を教えろという理由で逮捕監禁された。同じ理由で、彼は両手を縛られてウォレダOPDOのトップとその同僚から鞭打たれたのだ。それだけではなく、ハイレ・ゲレルチャ(監禁された農夫の息子)を1月13日にウォレダ町で探し出した後、OPDOのトップと同僚は息子を地面にうつ伏せにして日中明るい中で人々の目前で5発の銃弾を撃ちこみ射殺したと報告されている。その次の日、息子の死を知らされ、その死体を引きとって埋葬しろと言われゲレルチャ・デガガは釈放された。


3.9. ウォゲネ・ゲダは西ショアのウォレンス・ケチェマPA、メタロビ・ウォレダ出身の若者である。1996年2月11日、軍隊メンバー2名が彼を自宅から連れ去り警察署長に引き渡した。2日間の拘留の後、兵士2名とウォレダ駐屯軍隊の指揮官が彼を午後10時に警察署長の事務所に連行し、オロモ解放戦線(OLF)の支持者でありスパイであるとして責めた。兵士たちはウォゲネに、誰が一緒に活動していたのか話せと命令し、どんな活動をしてきたのか、そして居場所に連れて行くようにと命令した。そして彼らはウォゲネに手錠をはめ、膝を曲げさせて手錠をはめた手の間で輪になるようにしてその輪の間に木製の棒を通してテーブル2台の間に彼を吊るし、足の裏を何度も殴打して白状するようにしむけた。1996年6月22日にまで裁判も受けられず警察署に監禁された後、ウォゲネはウォレダ副理事とウォレダOPDOのトップから、罰金4000ビルを支払えば釈放されるというOPDOの政治的決定を告げられた。500ビルは即刻支払われなければならず、残りは働いて金を得てから徐々に返して行かねばなららなかった。そこで彼の両親はウォレダOPDO軍部隊のトップに要求された金を支払い息子を釈放させた。ウォレダOPDO軍部隊はOPDOの決定した罰金を囚人から集めていた。ウォゲネが支払った金の領収書を要求したとき、政治的罰金に対する領収書は発行されないと告げられた。


3.10. アベラ・チェワクァ兵卒(年金生活者)
3.11. W/ro グーアイ・ケベデ
3.12. ゲレチェ・ネガツ軍曹


上記3名はアジスアベバのウォレダ24、ケベレ09の住民である。1996年2月6日、アベラ・チェワクァ(タクシー運転手)が帰宅した時コルフェ駐屯地訓練所にいた警察官が他の4名の警察官と共に彼の自宅の40メートル前から銃を構えてアベラを止まらせた。そして彼らはアベラをタクシーから降ろさせて棒で殴った。アベラが助けを求めて叫び、その妻と隣人のゲレチエ伍長がやって来たが、余計な手出しはするなと言われて彼らも同じように殴られた。


3.13.トロサ・キシェは西ショアのベガジョ・ブイェマPA,メタロビ・ウォレダ在住の農民である。1996年2月19日、警官と軍のメンバー10名によって彼は自宅からゴロ森林に連行された。そこで彼はOLFの支持者であり反逆者達に食糧を与え武器を隠していると責められた。警官と兵士は彼の両手をナイロン製の縄で縛り、腹ばいにさせて棒で何度も殴った。さらに彼の脚を銃剣で何度も突き刺して彼に重傷を負わせた。次の朝に警官と兵士は彼をケッケトという場所に連れて行き、1996年4月9日まで彼をウォリンス公共事業共同体の事務所に監禁した。


3.14.モツマ・レメチャは西ショアのスバ・アガミスPA、メタロビ・ウォレダの農民である。 1996年2月24日、彼は警察官とOPDOのメンバーによってウォレダ警察に監禁された。1996年2月29日、彼は真夜中に警官によって取り調べ室に移され、両手脚を同時に固く縛られた。脚の間に棒を通されて2台のテーブルの間で吊るされ、足裏を強く殴打された。彼はさらにOLFを支持しておりメチャとアジスアベバのツレマ協会の間で手紙を配達していると責められた。後に彼は「OPDOは600ビル支払えば釈放してやると政治的決定を下した」と告げられた。従って、彼は罰金をウォレダOPDOの軍部隊のトップに支払って釈放された。彼が領収書を要求したとき、政治的決定に関する領収書は発行されないと告げられた。

3.15.ウスマン・ユソウフ・ウメルは東ハレルゲのハレ・デネバPA、ベデノ・ウォレダの農民である。1996年4月12日正午、彼の自宅は軍のメンバーによって武器を隠蔽しているという口実で非法に捜査された。そして彼らは家族を追い出し、家に鍵を掛けてウスマンを第12大部隊第3部隊が軍の駐屯所としていたハレ・デネバ小学校の施設に連れて行った。駐屯所で彼は両手を縛られて情け容赦なく殴られた。


3.16. 1996年6月23日、芸術家のタマグネ・ベイェネ はアジスアベバ・スタジアムにウガンダとエチオピアのユース・サッカーの国際試合を観に行った。前半戦が終わった後、警察官が彼と他の観客に銃を突き付けてスタジアムから連れ出した。タマグネはパトカーでコルフェ警察訓練所に連行された。そこで彼は他の60名の観客と共に殴打されて重傷を負った。観客らはエチオピアチームに不満を表わすブーイングをしたため殴られたのことである。しかしタマグネはスタジアムで行われた1992年の音楽祭で 「彼はエチオピアとエチオピア人を称えるスローガンを呼び掛けて観客に貴賓タムラット・ライネ首相を馬鹿にするように仕向けた」ために殴打されたのであった。

3.17. エシェテ・ウォルクはアジスアベバのケベレ33、ウォレダ15、住宅番号207に住む若者である。1996年7月14日午後5時にウォレダ15警察署の3名の警察官により取り調べを受けるために彼は警察署に連行された。そこで彼は縛られて重傷を負うまで強く殴打されたのである。


3.18.スレイマン・セイド・アブデァは1996年7月21日に彼の家族を訪ねるために西ゴンダールに向かっていた。彼がビチェナの街に着いた時、午後2時に平服の警官が質問をするという名目で彼をビチェナ警察署に連行した。しかし、彼はそこで監禁されて翌日にデブレ・マルコス第2警察署に移送された。7月23日の午後4時半、彼はギムジャ・ベトにある第20機甲分隊の軍隊駐屯所に連行された。そこで彼はAAPOのメンバーであると責められ、両手を電線で縛られて繰り返し鞭打たれた。取り調べの間、彼はアスラット教授とタエ博士を知っているかと問われ、何人が彼と一緒にアジ活動の為にゴジャムに送られたかを問われ、他の人間はどこに行ったのか、外交官の名前を何名集めてタエ博士に渡したのか、そしてエチオピア全国愛国者戦線の軍隊はどこで活動しているのかと問われた。1996年7月26日に、彼は第20機甲分隊の本隊に送られて監禁された。ひとりのタガイと3名の他の兵士がスレイマンを別室に連れて行き、そこで又彼らはスレイマンの両手を縛り、大きなテーブルの上にうつ伏せにさせた。彼らは太い金属のパイプを 彼の首すじに押しつけてパイプの両端を押さえつけ彼が動けないようにした。彼らは丸めた布を彼の口に押し込んだ。そして誰がゴンデルに送られたのか、何人が送られたのか等、尋問を始め、電線で彼の背中と脚を繰り返し鞭打った。


5. 誘拐されて失踪した人々


世界人権宣言の第9項では「誰も独裁的に逮捕されたり監禁若しくは国外追放されることはない」と述べられている。世界人権宣言と他のエチオピアが裁可した人権問題会議を内容に込めているFDRD憲法の19条(3)では「逮捕された全ての個人は法廷に訴えて48時間以内に逮捕理由の完全なる説明を受ける権利を有している」と述べられている。第21条項では「拘留中の全ての個人は、刑の宣告を受けた囚人も含めて、人間の尊厳を尊重する状況を求める権利がある。全ての個人は配偶者及びパートナー、親類、友人、宗教的指導員、弁護士、医療関係者と連絡を取り面接を受ける権利がある」と述べられている。しかし、政府治安部隊はこれらの憲法上の権利を侵害し、下記の人々を強引に誘拐した。この報告書が発行される今日まで彼らの所在地は不明である。


行方不明者名 誘拐場所 誘拐日
4.1.1 アベラシュ・ベルタ 1993年5月20日 A.A.ウォレダ19、ケベレ54
4.1.2 エンデシラチャゥ・アドマッセ 1994年6月19日 ゴンデール町
4.1.3 テショメ・ビムレゥ 1995年11月12日 A.A.ウォレダ13、ケベレ08
4.1.4 アジス・バイレイェグネ中尉 1996年3月15日 A.A.ウォレダ16、ケベレ08
4.1.5 アジメゥ・テッセマ 1996年8月14日 A.A.ウォレダ01、ケベレ08
4.1.6 アレバチェウ・ウォレク 1996年8月14日 A.A.ウォレダ02、ケベレ10

6. 職から解雇された人々

誰しもが働いて生活を立てる権利がある。 世界人権宣言、他の国際法、そしてエチオピアの法律がこの基本原理に基づいており、この権利は法的保護を受けるべきとされている。
しかし、下記の公務員がEHRCOに苦情を申し立てたところによると彼らは十分な説明も無く、または何の健康上の理由もなく年金を受理できる年齢に達する前に不本意に解雇された。

解雇者名 職場名
6.1 レゲッセ・バジェバ、他1159名 アカキ衣料工場
6.2 デスタゥ・ゲベイェフ、他1449名 タテック・エンジニア工場
6.3 アィアレゥ・イフル、他246名教師 他地域の学校
6.4 メスフィン・タエ軍曹 シェベディノ・ウォレダ警察
6.5 ゲレツ・アベ兵卒 ドゥグダ・ウォレダ警察
6.6 エシェツ・カッサフン マフド・ウォレダ評議会
6.7 デレジェ・ウデ アジスアベバ・セメント工場
6.8 モハメド・アバメチャ ギムボ・ウォレダ裁判所(裁判官)
6.9 アシェビル・W/ツァディク ギムボ・ウォレダ裁判所(裁判官)
6.10 ゲベイェフ・ギザゥ ギムボ・ウォレダ裁判所(公衆検察官)
6.11 シャトチャチェゥ・シェノ シェカチョ地区高等裁判所(裁判官)
6.12 メンギスツ・ウォルデイェス アジス・飲料品工場
6.13 アレム・チゴ シェカチョ地区公衆検察官事務所
6.14 メコネン・フェレデ バヒル・ダル衣料工場
6.15 ガシャウ・ツガィエ バヒル・ダル衣料工場
6.16 アベベ・タミル バヒル・ダル衣料工場
6.17 ハブテウォルド・T/マリアム 外務局
6.18 バシャ・テスファイェ・アド カフィチョ地区警察
6.19 テクレ・タデレ兵卒 カフィチョ地区警察
6.20 メラク・フォラ兵卒 カフィチョ地区警察
6.21 ゲタチェウ・ケフヤレゥ ボンガ町管理局
6.22 アベラ・エビッサ ボンガ町管理局
6.23 ゲベボ・ゲブレ ボンガ(EDDC)
6.24 イファ・ワキラ 西ウォレガ公衆検察官事務所
6.25 メコネン・テレフェ 西ウォレガ公衆検察官事務所
6.26 アバィネ・アリ 西ウォレガ公衆検察官事務所
6.27 ケベデ・デスタ 西ハレルゲ公衆検察官事務所
6.28 テッセマ・ラセ 西ハレルゲ高等裁判所(裁判官)
6.29 メコネン・メンゲシャ第2中尉 チェナ・ウォレダ警察
6.30 ゲタチェゥ・アイェレ第2中尉 チェナ・ウォレダ警察
6.31 アスクエ・G/マリアム中尉 チェナ・ウォレダ警察
6.32 アイェレ・マモ ウシュウシュ 茶開発企業体
6.33 アレマエフ・アバダマ ウシュウシュ 茶開発企業体
6.34 ベケレ・メコネン ウシュウシュ 茶開発企業体
6.35 アデメ・ハイレ・ミッシェル ウシュウシュ 茶開発企業体
6.36 ビアドギリグネ・テグバル ウシュウシュ 茶開発企業体
6.37 ウォンヂマゲグネ・シサィ第2中尉 シブ・シレ・ウォレダ警察
6.38 H/マリアム・チュルコ ジマ市評議会
6.39 ハブタム・ハイレ メンジウォ・ウォレダ裁判所(裁判官)
6.40 タミル・ウォエッサ メンジウォ・ウォレダ裁判所(裁判官)


7. 年金を受ける権利の拒絶


下記の農民達は、受給年齢に達し、年金を受ける資格を満たしているにも関わらず、年金を受ける権利を拒絶されたとEHRCOに苦情を申し入れた。
7.1.アレム・テセマ・ゴベナ伍長
7.8.イテファ・グタ・ネゲウォ兵卒
7.2.シャウル・モゲス・ライェウ指揮官
7.9.タデセ・ワケ・アボ伍長
7.3.ツガウ・アスファウ・ネガツ指揮長
7.10.モハメド・アギデ・アヂム兵卒
7.4.ヂルバ・グデタ・デベラ指揮官
7.11.タイェ・ゴベナ・ゲラン指揮長
7.5.アワジュ・メゴシャ・テゲグネェ指揮官
7.12.ケテマ・カサイェ・バラ指揮官
7.6.ウォルダ・タデセ・W/ギオルギス指揮官
7.7.ゲベレ・イグジアベル・アレム・グアングル兵卒


8. 戦争犯罪人

8.1ベレゥ・アバィはエリトリアの前軍隊の組織部の将校であった。彼はアコルダットで他の将校と共に捕らえられアスマラ革命広場で1991年5月27日から1991年7月14日まで戦犯として拘留された。この期間中、彼の家族は彼を訪問して食糧を与えていた。彼がサヘル刑務所に移送されてからはそれは不可能になった。


8.2 ハゴス・G/イグジアベール・ベルヘは禁止されていたエチオピア労働党(WPE)のメンバーであり、WPEのチグライ州訓練観察部長であった。
1991年5月18日にEPRDFの軍隊がデッセの街に攻めた時、ハゴスは捕らえられたが、それ以後の消息は不明である。


9. 財産の押収


世界人権宣言の第17項 では「全ての人は自ら個人の財産と同様に他者との共同財産に対しても権利がある。何者もその財産を恣意的に奪うことは出来ない」と記されている。しかし、この規定と国の法律に反して、以下の者は自らの財産を奪われそれに対する支持を示すよう服従させられたと報告している。

9.1メラク・ベイェネはハラレ町、ケフテグナ3、ケベレ11、住宅番号8に住んでいる。メラクがアジスアベバのデジャズマク・バルチャ病院に入院していた時、ハラレ行政区の警察部隊のメンバーが犯罪調査長官から命令を受けて1995年9月24日にメラクの家に押し入った。捜査令状無しに家宅捜査を行った後、囲いの中に停めてあった彼の自動車(プレート番号A/A2-038)を持ち去った。この車は現在警察によって使用されており、プレートは「警察1705」と書かれたものに代えられている。アスメディン・ベリ・ウォレダ裁判所とウォレダ公衆検察官からの再三の要求にも関わらず、警察は車を法的所有主に返すことを拒否している。


9.2ケフィチョ地区、ギムボ・ウォレダのキリスト教信者たちはクッティのセント・ミッッシェル教会修復工事に寄付をした。金はメミレ(司祭)・カッサ・ベケレ(教会委員会メンバー)に渡され、彼は教会財団の建物の修理用に32立方メートルの石を購入し442ビルを支払った。しかし、彼が石をクッティに運んでいる途中、ギムボ・ウォレダ行政評議会の 上級公務員が武装した数名の警察官と共に石を運んでいた車を止めさせて石を警察署で降ろすように運転手に強要した。そして彼は保釈中の運転手を自由にし、そうして教会の財産を押収した。


9.3 ケロ・ウォルデ・ミッシェルはギムボ・ウォレダのウッファ町の在住である。
1996年9月8日、彼は 700キロのセメントをウッファからウシュウシュに運んでいた。そこで彼は新しい家を建てていたのであった。しかし、途上で彼は引き止められ、セメントはウォレダ行政評議会の2名のメンバーと警官1名によって押収された。彼らはそのセメントを警察署に持ち去った。


9.4サリ・ジルモはボラナのヤベロ町、ケベレ02、住宅番号344に登録したホテルを所有している。彼が医療手当てを受けるためにアジスアベベに来た時、ウォレダ役員の会議が1996年3月6日にウォレダ事務所で行われており、決議案が可決された。その決定は「サリ・ジルモは反逆行為を止める意志が無いので、彼のホテルは閉鎖し封鎖する」というものであった。従って、ホテルは閉鎖、封鎖され所有者は財政的損害を受けた。この報告が出される現在に至るまで、彼のホテルはいまだ返還されていない。


9.5 ベケレ・ベヂイェはボラナのハゲレ・マリアム町、ケベレ01に「ショフェロシュ・ホテル」という名前のホテルを有している。所有主が医療手当てのためにアジスアベバに来た時、彼が政府に対する反逆の為に奥地に逃げていたという口実で彼のホテルはウォレダ役員によって閉鎖され封鎖された。彼のホテルは閉鎖された5ヶ月後に返還された。


10. 結論


過去から現在にいたるEHRCOの報告にて明らかにされたように、警察と防衛軍のメンバーは法を冒し人権を侵害してきた。彼らの任務は反逆行為を行ったと思われる人物を法廷で法の元で裁きを受けさせることである。それに反して、彼らは親類縁者を殺したのである。十分な証拠も無いままに彼らは反逆を目論んでいるとの罪で人を逮捕して殺したり、若しくは拘留して拷問を与え肉体的に傷付け時には不具にさえするのである。また時には誘拐して行方不明したり、財産を押収したりする。法の上では政治的機関のメンバーになることや政治的意見を持つことは権利として認められているのだが、それに反して彼らは政治的機関の支持者を責めて上述したような残虐行為を与えるのである。政府は人権を守るためにこのような暴力の加害者に対して法的措置を行っているようには見えない。政府を批判した者は、受身的にこれらの暴力を見ているしかなく犯人が非合法的行為を続けるのを見ているしかないのである。こういった状況からも政府が人権の価値を高める努力をしていないことが伺える。現行法を実施する試みがなされないのであれば、政府が発布した法律、国際人権会議が批准した法律、憲法に書かれている条項についてなど論議するのも無為である。これは、人権監視機関が評価を適切に行っていないという基本的問題の一角である。監視機関は単に人権擁護の法律があればそれが人権擁護の進歩を意味すると考えているのだ。しかしながら根本的な問題は紙の上の法律ではなくて、法が完全に適用されることである。
EHRCOの第9報告において指摘されたように、裁判制度は改良されていない。1992年に裁判官数名を即時解雇してから弱体化した司法局は1996年の第2次解雇で全く麻痺状態に陥っている。先頃「法廷の組織改革」との名の元で相当数の質の高い経験を積んだ裁判官が解雇されている。このため、多くの裁判官職が併合されている。例えば、アジスアベバだけで28名のウォレダ裁判所犯罪裁判官職、28名のウォレダ裁判所市民裁判官職、そして6名以上の高等裁判所市民裁判官職、4名の最高裁犯罪裁判官職、6名の最高裁市民裁判官職、そして2名の最高裁労働裁判官職があったのだが、それぞれのウォレダ裁判官職はたった一人の裁判官によって担当されている。裁判の件数が多くなっても、十分な時間をかけて判決を下すことは出来ない。しかし、事態をさらに悪化させているのは、72名以上いたウォレダ及び高等裁判所裁判官職が今ではたった12名の裁判官職に縮小されていることである。3万5千以上の裁判が62名のウォレダ裁判所裁判官職によって検討され、数千もの他の裁判を最高裁判所裁判官職が担当する。しかし今日では第一裁判所に送られた事件はたった5名の第一裁判所裁判官職によって担当されるのである。従って、裁判所は処理可能な数よりも多くの事件を取り扱わなければならなくなったので、裁判官たちは次の審問の日程を決めるだけで労働時間外も会議室に閉じ込めらてしまうのだ。裁判官の数を増やしてもっと多くの裁判官職を開かなければ、市民は司法を否定し始めるであろう。事実、人権を侵害したとして告訴され、デルグ政権時代の戦犯として告訴された数千もの抑留者の裁判が一人の裁判官職によって検討された事実は政府が抑留者の状況を考慮していないことを示している。
デルグの失脚以来6年経っても正式な刑も受けずに抑留されている者が多数いるのである。彼らの事件がまだ調査中だというのが彼らの裁判が遅れている言い訳である。しかしながら多くの人を6年間も拘留しておいて調査が未完了などと言っても疑わしいものだ。裁判官の数不足が遅延の理由だとしても充分ではない。何故なら実際には法律の専門家が不足しているのではないのだから。例えば、アマハラ行政地区だけでもLLB学位を有する裁判官が17名、法律学の学位を有する裁判官が一名、合計で18名の高等裁判所裁判官が充分な理由も無く解雇されたのである。アジスアベバからもLLB学位保持裁判官が20名、法律学位保持裁判官が20名充分な理由無く解雇されている。メレス・ゼナウィ首相でさえ数千名の抑留者の裁判遅延の原因を公式に認めて「これ以上の理由を今後加えることは出来ない」と述べている。従って数千もの人々を法廷の裁き無く抑留し続けることは人権侵害である。人権を侵害し、法を無視した政府高官や治安部隊に対して然るべき法的措置を取らないのはそのような暴力に対して開放的であるだけでなく暴力の存続を奨励しているのと同様である。
従って、EHRCOは政府に以下を要求する:
*  刑を受けずに抑留されている者に更なる遅延無く裁判を与えること。若しくは刑を与えるに足りる充分な理由無き場合は拘留者を自由にすること。
*  現在、及び過去のEHRCOの報告にて明らかにされた人権侵害加害者に必要な法的措置を与えること。
*  司法局を改善すること。裁判官職を開放して更なる裁判官を加えること。
*  非法に略奪された財産を法的所持者に返還すること。
*  不当に解雇された者を職場に復帰させること。
*  国際法及び国家法にて唱えられている人権条項を実施する努力を行うこと。


EHRCOは更に全ての政府、人権保護機関、国際NGO、宗教機関、及びエチオピア国内外の全ての個人に対し、又、法の規則と人権を重んじる者に対し、あなたがたの影響をもってエチオピア政府に人権を尊重させるようにさせていただきたいと訴える。

複写配布先:

人民代表議会(Council of People's Representatives)
P.O. Box 80001, Addis Ababa, Ethiopia


ネガッソ・ギダダ博士(His Excellency Dr. Negasso Gidada)
FDRE 大統領
P.O. Box 1031, Addis Ababa, Ethiopia


メレス・ゼナウィ閣下(His Excellency Ato Meles Zenawi)
FDRE 首相
P.O. Box 1031, Addis Ababa, Ethiopia


マテメ・ソロモン閣下(His Excellency Ato Mahteme Solomon)
司法大臣
P.O. Box 1370, Addis Ababa, Ethiopia


ケマル・ベドリ氏(Ato Kemal Bedri)
最高裁判所長
P.O. Box 6166, Addis Ababa, Ethiopia

 


新曲「ルワンダの歴史を繰り返さない」ソロモン・テカリグ
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Tamagn's tribute video
罪なき犠牲者:政府公認の暴力による被害者を撮ったビデオ
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