ヒューマンライツウォッチ
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エチオピア 2001年の人権状況
人権を擁護する国際社会の役割
人権状況
エリトリアとの戦争の後(そして一部は戦争の結果)2001年のエチオピアにおける市民的自由を巡る状況はかなり悪化した。政府は、公民権活動家、政敵、学生、ジャーナリストを正式に起訴しないまま投獄し、また警察は非武装の民間人に対して、武器を使用している。7月、外務大臣は記者団に対し、エチオピアの状況は自由な民主主義にとって好ましいものではない、と述べた。教育大臣もエチオピアの司法制度には大きな欠陥があることを認めている。政府機関が司法制度に干渉しているというのだ。また司法制度はしばしばその権威を乱用し、透明性を欠き、説明責任を果たしていない。
司法制度はごく一部の例外を除いて、政府による人権侵害の共犯者になっている。裁判所は、警察がカタツムリのようなペースで「捜査」を行っている間、正式な起訴をせず、保釈も認めず、勾留延長を機械的に許可している。勾留の必要性を確認することはめったにない。裁判所の勾留質問は数週間に1回程度開かれ、裁判所が警察に、何ヶ月間もの捜査の許可を与えるだけである。これまでもずっと裁判は、何年もかかり、その間、非暴力的な形で政府を批判したというだけで勾留されている活動家や批判者は、非常に厳しい境遇を耐えなければならない。最終的に起訴されることもあるし、起訴や裁判もなしに何ヶ月も勾留されてから釈放される事もある。
エリトリアとの戦争は2000年6月の停戦と、2000年12月の包括的な和平合意で終結したが、政治指導者の間ではその締結と実行をめぐって激しい議論があり、また両国関係はきわめて険悪になった。連立与党エチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian Peoples' Revolutionary Democratic Front EPRDF)の第一党であるティグライ人民解放戦線(Tigray People's Liberation Front TPLF)の中央委員会のメンバー12人は、3月、首相メレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)の政策について12項目にわたる批判を発表した。これには他の与党のメンバーも加わり、政府が拙速に不利な和平合意を締結したことを批判している。また政府の経済自由化政策に反対し、首相の汚職を批判している。
内部から批判が出てきたことに対して、政府は政治的な対応をした。防衛大臣のサイエ・アブラハ(Siye Abraha)など何人かの閣僚と将校を解任し、批判を支持した議員たちのリコール請求を組織し、まとめあげた。その後EPRDFに参加している政党は、政府批判に加わった各党の指導者を追放した。その中にはエチオピアの大統領(ほとんど形式的なもの)ネガソ・ギダダ(Negaso Gidada)も含まれる。彼は、所属政党であるオロモ人民民主機構(Oromo People's Democratic Front、OPDF)の中央委員会から追放された。2001年10月ネガソの任期が終了すると、議会は全会一致でギルマ・ウォルデギオルギス(Girma Woldegiorgis )を任期6年の大統領に選出し、新政権を承認した。
政治的な批判や戦争の膠着を背景に、2001年4月、政府が学問の自由を侵害しているとして大学生たちが抗議を行った。学生たちの主な要求は、発禁となった学内誌の再開、政府と非常に近い関係にある大学管理職2名の更迭、大学構内に駐留する治安維持部隊の撤退である。政府は最初の二項目の要求は受け入れたが、治安維持部隊の撤退時期を明らかにしなかった。学生たちが要求を引っ込めないでいると、教育大臣が、授業に戻らない学生は逮捕するとの最後通告を発表した。治安維持部隊がこの最後通告を実行しようとしたため、4月17日、18日に衝突が起こり、学生ではない人々も抗議行動に参加したため手の付けようがない状態になった。この抗議行動を鎮圧するため、警察は実弾などの激しい暴力を使い、大勢の人々を逮捕した。2日間の衝突が終わった段階で、学生を中心に40人の民間人が死亡し、400人が負傷した。他の大学でも反政府の抗議行動が展開された。
政府は、学生約2000人を逮捕した。そのほとんどはすぐに釈放されたが、数百人の学生は首都から200キロ以上離れた刑務所へ運ばれた。逮捕された者以外にも、ケニヤに逃げた学生が100人以上、ジブチへ逃げた学生が約70人いる。
警察による学生弾圧事件の後、数週間の間に全アムハラ人民機構(All-Amhara People's Organization AAPO)とエチオピア民主党(Ethiopians' Democratic Party EDP)という2つの野党のメンバーが逮捕された。4月から6月の間にAAPOのメンバー400人以上が逮捕された。AAPOによると、勾留されたのはほとんどが地方選挙の候補者であった。またEDPでは100人以上のメンバーが逮捕された。AAPOとEDPは「明らかに暴力沙汰に関与し」「フーリガン」を組織して暴動を起こしたと警察は主張している。
このように大量の逮捕があったため、刑務所は過密状態になっている。中立のオブザーバーが刑務所の状態を監視することはできないが、釈放された人々は、衛生状態が悪く、チフス、赤痢、結核など空気や水が媒介となる伝染病が広がっていると訴えている。AAPOのメンバーであるゲブレハナ・ウォルデ・メドヒン(Gebrehana Wolde Medhin)など4人の囚人が亡くなったと伝えられている。政府はゲブレハナ・ウォルデ・メドヒンの死因は結核だと主張しているが、AAPOは彼が暴行の結果亡くなったと訴えている。また家族は彼が入院したことを知らされていないし、遺体も家族の元に返されていないと言っている。
7月の始めに、政府は4月の事件で逮捕した人々約100人を釈放したと発表した。この人たちは起訴されなかったが、2ヶ月以上勾留された。これ以外に150人が保釈された。政府は16人については勾留を継続していると認めている。しかし現実に何人の学生が勾留されているのかは未確認である。逮捕されたAAPOのメンバーのうち、政府は32人を釈放(2人は保釈)したが、2001年11月の段階で、少なくとも6人はまだ投獄されたままである。一方EDPのメンバー約100人のうち、90人は起訴されないまま釈放された。それ以外に4人が保釈された。しかし7人は2001年11月の段階で、起訴されないまま勾留されている。
2001年6月政府は「反汚職法」を改正し、汚職で起訴された者には保釈を認めないこととした。この修正はすぐに、EPRDF支持の政党から追放された、首相の元盟友らに対して適用された。逮捕された人々の中で最も有名なのは、元防衛大臣のサイエ(Siye)である。彼と、彼の共犯者とされる人々は6月半ばに逮捕された。珍しいことに裁判所は彼の保釈を認めたが、彼は裁判所の建物を出たところで再逮捕された。8月半ば、裁判所は警察が捜査を終了するため、「最後の」2週間の勾留延長を認めたがこれも無意味なことだった。2週間経っても、起訴も釈放もなかった。10月の終わり、つまり逮捕の5ヶ月後、サイエ(Siye)らは汚職で起訴された。保釈は認められなかった。
新反汚職法はもう1人の著名な批判的政治家で南部民族人民諸州(Southern Nations, Nationality and People's State)と呼ばれる地方の元代表であるアバテ・キショ(Abate Kisho)にも適用された。彼は、サイエの事件で起訴された被告の1人に契約を割り当てた容疑で、7月後半に逮捕された。逮捕の理由となった行為は、この法律ができる前のことだったとアバテは主張したが、彼は起訴されるまで4ヶ月勾留された。エチオピア憲法22条の1は、世界人権宣言11条の2と同じく、何人もある行為または不作為の時点で違法とされていないことによって有罪とされてはならない、犯罪発生の時点で適用される法に定める以上の刑罰を課せられてはならない、と定めている。2001年10月後半、キショは地位を利用して違法な商行為を行ったとして起訴された。
政府が裁判所に圧力をかけていることは、中立の立場で行動しようとする裁判官がどのように扱われているかを見ればよくわかるだろう。4月に逮捕されたEDPのメンバーの中に、党の事務局長であるリデツ・アヤレウ(Lidetu Ayalew)がいた。裁判所は6月上旬、彼を釈放するよう命令したが、2週間後に再逮捕された。警察は、彼が携帯電話を使って学生の抗議行動の調整役をしたと言っている。しかし処罰を受けたのは彼だけではなかった。彼の釈放を命じた合議体の裁判官3人も起訴された。リデツは起訴されないまま、70日間勾留され、7月半ばに再び釈放された。
政府はさらに十数名のビジネスマンを反汚職法で逮捕した。彼らも起訴されないまま何ヶ月も勾留され、彼らの金融資産業務は凍結された。逮捕された人々の中には、全く政治とは関わりのない人々もいた。
独裁者デルグ(Derg)政権時代の官僚、デルグの協力者とされる人々、反乱グループの支援者と疑われる人々の取り扱われ方と比較すれば、裁判なしの長期の投獄も大したことではないようだ。デルグ政権時代の官僚とされる人々の多くは1991年に逮捕された。10月、アムハラ州裁判所は23人の被告人を無罪とし、2人を16年の懲役とする判決を出した。それまでにエチオピア各地の裁判所は1181件の評決を出し、375人を無罪とした。10年後の今も、2200人の被告人はまだ裁判を受けていない。1999年以降、連邦政府はオロモ解放戦線(Oromo Liberation Front)を支援したという容疑で、オロミヤ州の1200人を拘束した。そのうち半分はまだ起訴されていない。連邦検察庁は、裁判や釈放が遅れているのは、熟練した警察や検察官、その他各種の資源の不足が原因だとしている。
中立のメディアで働くジャーナリストも、報道が原因でしばしば嫌がらせを受ける。エチオピアでは独立系のマスコミが活動することが認められているが、首相のメレス・ゼナウィは、これらを「下等なマスコミ」と呼び、記者が政府のニュースやブリーフィングに近寄れないようにしてしまった。「改善」として、政府は10月、「責任ある建設的な」中立系のマスコミは、政府の情報を得ることができるようにすると発表した。テレビとラジオ放送はすべて、政府と与党連合のEPRDFがコントロールしている。2001年10月の時点で、投獄されているジャーナリストは、廃刊になった週刊誌アクトゥロット(Akturot)の発行人1人だけであるが、過去の報道に関連して80人のジャーナリストの起訴が保留になっている。投獄されているジャーナリストは、2年前の記事で政権が倒されることを予測した退役将校の言葉を引用したが、これが暴力扇動にあたるとして逮捕された。彼はまたある国営工場での汚職疑惑についての記事を公表したため、名誉毀損でも訴えられている。これ以外に短期の勾留が非常に頻繁に行われており、懸念される。たとえば、5月と6月に、1人ずつジャーナリストが投獄された。1人は教会の役員をめぐる汚職疑惑、もう1人はエチオピア電力会社にまつわる汚職疑惑を報道した、何年も前の記事が原因である。7月、政府は8つの出版メディアのジャーナリストたちを逮捕した。外務大臣が首相と不和である、とする報道によって名誉を侵害されたと外務大臣が訴えたからである。7月には、ある編集者が、地方の官僚1人と大統領の警備員が数人逃亡したという1999年の記事を理由として投獄された。20人以上のジャーナリストが国外に亡命しており、そのうち3人は2001年に脱出した。
野党も、4月の騒乱後の大量逮捕の他、様々な形で合法的な活動を妨害されている。EDPは8月にアジスアベバで党大会を開催する許可を得られなかった。AAPOは、地方選挙で不正が行われたとして、抗議するためアジスアベバの6人の地方議会議員に議会をボイコットするよう指示した。EDPは10人の地方議会議員に対して議会のボイコットを呼びかけることはなかったが、不正選挙であったと訴えた。
エリトリアとの戦争によって、市民生活改善に使われるべき経済資源が使われてしまい、悲惨な影響が今も続いている。エチオピア政府の発表によれば、貧困にあえぐこの国が、戦争を継続する費用と、戦争後の復興と再定住の費用計30億米ドルを使わねばならなかった。ある地方の研究所によると、戦争による強制移住、家畜と食糧備蓄の損失、家屋・社会資本・経済活動の破壊のため、市民生活は壊滅的な打撃を受けた。社会資本の損失だけでも2億ドルに昇る。観光客、海外からの投資、援助なども減少した。
戦争が終結したので、エチオピアは、防衛費を20%、3億5000万ドルまで減少させることができたが、オロミヤ(Oromiya)、ソマリ(Somali)、南部諸州(Southern Nations)、ベニシャンガル?グムス(Benishangul-Gumuz)などの州で、各民族を主体とした独立派の動きがあり、軍事的な脅威に悩まされている。
政府軍と反乱軍(そして民間人)が殺され、または負傷するような小競り合いは現在もしばしば起こっている。このような小規模な、しかし破壊的な戦闘が発展して、反乱を扇動していると疑われた住民が大量に逮捕されることもある。このようにして逮捕された人々も、起訴や裁判を受けることなく、何年も何ヶ月も勾留されている。
停戦によって戦闘行為は終結したが、両国の間の憎悪が消え去ったわけではない。6月、エチオピアは、休戦協定第2条に反して、国際赤十字委員会に事前通告することなく、エリトリア人と認定した772人を強制送還した。8月には、行方不明となっている戦闘機パイロットに関する情報が得られるまで、エリトリアとの戦争捕虜交換を中止すると発表した。10月になってエリトリアが「健康上の理由で」24人のエチオピア人を釈放し、エチオピアがこれに応じて、同じく「健康上の理由で」23人のエリトリア人を釈放したことで、ようやく捕虜の交換が再開された。この釈放で、合計653人のエチオピア人と、879人のエリトリア人戦争捕虜が釈放されたことになるが、2001年11月初旬の段階で、350人のエチオピア人と1750人のエリトリア人が戦争捕虜収容所に残されている。これに比べると民間人の自主的な帰国は、順調に進んでいる。戦争中34万5000人の民間人が戦禍を逃れた。ほとんどはそれぞれの国の中で避難したが、戦闘の前線が移動して、相手側領土に取り残された人々もいた。国際赤十字委員会は、1998年以降約5万5千人のエチオピア人をエリトリアから帰国させたと発表した。また7月には、エチオピアから1000人のエリトリア人を帰国させたと発表した。
学生の抗議行動と、それに対する警察の弾圧の2週間後、警察は二人の著名な人権活動家メスフィン・ウォルデマリアム(Mesfin Woldemariam)教授と、ベルハヌ・ネガ(Berhanu Nega)博士を逮捕した。二人とも学生の暴動を扇動したという容疑で起訴された。しかし政府はこの容疑を裏付けるような証拠を何も示していない。メスフィンは、エチオピア人権評議会(Ethiopian Human Rights Council: EHRCO)の創設者であり、初代会長である。逮捕の日、政府はEHRCOの事務所に入り、封鎖した。EHRCOは、民主主義、人権、法の支配を進め、人権侵害を記録することを目的として1991年に設立された。政府は1999年5月までEHRCOを認可せず、その監視活動に参加する人々に対する嫌がらせを頻繁に行った。投獄中、メスフィンとベルハヌはハンガーストライキを行った。このハンストと、事件が海外でも広く報道されたことなどもあってか、二人は1ヶ月間拘束された後7月に保釈された。保釈後EHRCOは活動の再開を許可された。
監視活動と市民的自由の促進を目的として設立された組織に対する嫌がらせは、他の活動家にも及んでいる。8月、エチオピア女性法律家協会(Ethiopian Women Lawyers Association、EWLA)は、強姦に関する法律の強化と、積極的な実施を求めて、数百人が参加する平和的なデモを実施した。ほぼ同時に、EWLAは、ある名家の息子が性暴力で訴えられた事件を、法務省が公訴していないことに抗議する手紙を地方紙に発表し、マスコミで大きく取り上げられた。まもなく法務省はEWLAの設立許可を停止し、銀行口座を凍結した。詳細を明らかにしないまま、EWLAの活動は許可された範囲を越えていると発表した。10月半ば、裁判所はELWAの口座の凍結を解除するよう命じ、法務省は、新しい大臣のもとで、ELWAの再度許可した。
5月、裁判所は、人権同盟(Human Rights League)の創設者8人に対し、無罪を言い渡した。3人はテロ活動への関与という証拠のない被擬事実で3年半勾留されていた。人権同盟は1996年、政府から活動許可を与えられなかったオロモ族グループの中心メンバーによって設立された。この他にも政府の嫌がらせによって地下に潜ったり、亡命を余儀なくされたグループは、オガデン人権委員会(Ogaden Human Rights Committee)、エチオピア政治犯連帯委員会(Solidarity Committee for Ethiopian Political Prisoners)、オロモ人権のための元囚人たち(Oromo Ex-Prisoners for Human Rights)などである。
国際社会の役割
エチオピアとエリトリアが2000年12月の和平合意を締結したのは、経済的なコストが一番大きな要因であった。エチオピア政府は、抗議行動をする人々に対し、殺傷兵器を使用し、反対勢力を黙らせ、不安定な地域のマイノリティを武力で弾圧したにもかかわらず、和平合意後、多額の支援プログラムを受けた。このような行為に対する国際社会の批判の調子が弱くなったもう一つの理由は、政府に反対する人々は「強硬派」で、政府は「中庸」の路線をとっている、という認識があるからだ。
反対勢力は、政府が自由主義市場経済を支持し、国際金融機関と提携することは、TPLFのイデオロギー的な基盤に対する裏切りだと考えている。国際通貨基金(IMF)は3月に1億1200万ドルの融資と、エチオピアの貧困緩和政策支援を決定したが、これは政府の政策を支持することの表明である。同様に、エチオピアに融資している国々が4月初旬に会合を持ち、エチオピアの対外債務4億3000万ドルのうち、70%について返済期限の延長、または帳消しを決めた。
国連
和平合意の実施は比較的順調に進んだが、両国はお互いに強硬な姿勢を続けている。9月に採択された安全保障理事会決議第1369号(2001年)は、国連のエチオピア?エリトリア派遣団(UNMEE)の期限を2002年3月15日まで延長することを決め、未解決の問題をすべて解決するよう両国に呼びかけた。未解決の問題の一つは、エチオピアがエリトリア国内にある地雷の詳細な地図を提供することを拒んでいることである。エリトリア国内で移住を余儀なくされた7万人のエリトリア人は、地雷の危険があるため、再定住ができないでいる。両国は二国間交渉に積極的ではない。エリトリアは、和平合意に反して、緩衝地帯のエリトリア側に部隊を投入していると批判されているが、エリトリアは国内でUNMEEの移動を規制しているため、確認することは困難である。エチオピアの部隊は、二国の間に当面の間おかれている安全保障地帯に入っていないと、UNMEEは報告している。国境確定委員会が恒久的な国境を引くことになっている2002年には状況は改善するかもしれないが、両国とも、委員会の中間報告に不満を表明している。また両国は、相手国の国民と認定した人々を追放し続けているため、追放された人々とその家族は大変な苦痛を強いられ、その過程で国際的な人権の基準も踏みにじられている。また懸念されるのは、和平合意で規定された、戦争による損害への賠償が遅れていることだ。
安全保障理事会決議1298号(2000年)に基づいて設立され、両国に武器の禁輸を命じた委員会は、安全保障理事会に対する5月の手紙の中で、委員会には監視をするための体制がなく、禁輸の効果的な実施という任務を達成するには限界があると訴えた。安全保障理事会は5月に禁輸を解除した。これに対して、欧州連合(EU)は1999年3月決定したエチオピアとエリトリアに対する武器禁輸を更新した。
国連子どもの権利委員会のエチオピアに対する2001年の評価は、肯定的な面と否定的な面の両方がある。政府が新しい家族法を採択したことは高く評価している。また学校の体罰を禁じる暫定措置も歓迎しているが、この措置が実施されていないことに失望を表明している。そして虐待行為が続いていることは、エチオピアの憲法そのものに反していると指摘している。エチオピアでは、首都以外には少年裁判所も少年の勾留施設もないため、多くの子どもたちが大人と同じ司法制度のもとにおかれている。子どもたちはしばしば児童労働において搾取され、教育、医療、食事も与えられないまま、路上で生活している者も多い。この国連の報告と似た内容になっているのが、4月に発表されたEHRCOの報告である。それによるとエチオピアの各都市で、放置された子どもが急速に増加しているとのことである。また少女に対する強姦も多く、たとえ通報されても加害者はほとんど処罰を受けないか、ごく軽い刑罰ですんでしまう。
米国
米国はエチオピア国内に広がっている人権侵害について、はっきりと反対を表明することを控えている。唯一の例外は、4月に、アジスアベバの米国大使館が、デモ参加者への過剰な武器の使用を非難したことである。さらに、米国は国連で、2000年5月17日に採択された1年間の武器禁輸措置を当初支持していたが、クリントン政権は2000年12月の和平合意調印の数週間後にこの禁輸措置を解除しようと策動した。これは結局は成功しなかった。国連は翌5月に禁輸措置を失効させたが、両国に対し、紛争が再燃するようであれば行動を起こすとの警告を発した。米国とエチオピア、エリトリアはきわめて密接な同盟関係にあるにもかかわらず、戦争の間、ブルガリア、中国、フランス、ロシアなどの戦闘員供給国や、武器供給国などに十分な圧力をかけることはなかった。
9月11日のニューヨークとワシントンへの攻撃の後、アフリカのこの地域は、国際的なテロに対抗する世界的なネットワークを作ろうとする米国の外交政策の中でも、急に重要な位置を占めるようになったようだ。攻撃の後、エチオピア政府は、イスラム系グループ、アルイティハダ?アルイスラムがビンラデンとつながっているして批判した。このグループは、ソマリアを拠点にしているが、エチオピアのソマリ族の自治を要求て活動していた。ブッシュ政権はこのグループの資産を凍結しようとした。10月始めにブッシュ大統領は、メレス首相に電話をかけ、米国の行動に彼が協力を申し出たことに感謝した。米国のエチオピアに対する2001年の支援は1億4600万ドルで、そのほとんどは食料援助と子どもの生存のためのプログラムに向けるように指定されている。