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エチオピア: 人権
 

タエに自由を与えよ!

データによるタエ・ウォルデセマヤット博士

タエ・ウルデセマヤット博士
1998年国際教育連盟人権賞受賞

タエ博士はエチオピア教員協会の会長であり、現在アジスアベベ(エチオピア)の中央刑務所に収監中である。博士は1996年5月29日に逮捕され、武装共謀の罪で起訴された。その後1999年6月に断罪されて15年の刑として判決を下された。しかし、そこには裁判期間の年数は考慮されていない。

過去にタエ博士は地域分割制度を含み政府の教育方針に対して批判的であり、教師達にとってのより良い環境を模索していた。博士は一度たりとも暴力的活動の支持者として知られたことはないし、政党との繋がりも一切なかった。エチオピア政府役人達が政府方針との意見の不一致を食い止めたいとし、タエ博士を他のエチオピア知識者層への見せしめとしようとしたのが、博士の逮捕と過酷な判決の真の理由であるように思われる。


タエ・ウォルデセマヤットは、アジスアベバの南90キロに位置するナザレスという街で生れ育った。若き日のタエはウェンジ砂糖工場のサッカーチームに参加していた。高校を終えた後、彼は米国に渡りそこで政治学を学んだ。彼は学士号と修士号をイリノイ州立大学で取得し(1983年、1985年)、博士号をミズーリ・コロンビア大学で取得した(1989年)。


1990年に、タエはエチオピアに戻り、アジスアベバ大学の政治学・国際関係学部に加わり、そこで教授として働いた。タエは有能な教師として、大学のコミュニティにとっての貴重な一員であると認められた。1992年にタエは、エチオピアの最大の教員組合であり、12万の会員を有するエチオピア教員協会の会長に選ばれた。

タエの指導のもと、エチオピア教員協会はエチオピアの若者に対する教育推進を活発に行っていった。タエはまた、エチオピア教員委員会と、国際教育連盟(EI)や世界教員組織同盟(WCOTP)などの国際的な教員組織との関係を強化する責任を担っていた。有力政権(TPLF)は民族別に分けた教育政策を遂行していたのだが、エチオピア教員委員会はこれに抵抗を示していた。1993年3月にTPLFはおよそ42名のアジスアベバ大学の先導者的な教授と講師を解雇した。とりわけ、政治学部の教師を解雇した。タエを始め5名のエチオピア教員委員会のリーダー的メンバーも含まれていた。

エチオピア教員委員会は平和的方法で活動を続けていた。タエは常に平和的政治プロセスによるエチオピアの民主主義的社会の実現を信じていた。1994年に出版されたインタビューではタエ自らが平和を目的にした立場にあることを明確に語っている。

「エチオピアとその発展を愛する者には、平和に代るものは何もない。我々にとっては、平和とは全国民の願い、個人の願い、政党と愛国主義者の願いを調和させる状況である。エチオピア国民は戦争には辟易している。そこでは農地が戦場となり、若者が不具となったり殺されたりする。エチオピア国民は平和と安全と調和のとれた生活を追求したいと願っているのだ」

エチオピア教員組合や他の労働組合に対抗するTPLF政権の動きは、国際アムネスティや人権問題監視委員会、EHRCOなどの人権団体によって文書で証明されるようになった。国内ではエチオピア教員組合は特に目の仇扱いされ、そのため主要活動メンバーの暗殺や行方不明、解雇などが生じた。エチオピア教員委員会基金は没収され、財産や書類は押収され、支局は封鎖された。

1996年5月、タエは欧州での国際教員協会の会議に出席した。度重なる脅迫と、おそらくは逮捕されるだろうとの大方の予想とは裏腹に、タエは1996年5月30日にはアジスアベバに戻った。彼と共に旅をしたのはアンドレ・デュモント(ABOPオランダ全国教員協会のメンバー)と二人の教授仲間(一人はドイツ全国教員協会のメンバー、もう一人はアフリカ大陸教員協会の同僚)であった。アジスアベバのボ—レ国際空港の入国審査を通った直後、数名の警備員がタエと仲間の周囲を取り囲んだ。タエは裁判所による召喚状無しに逮捕され、遠方のマエケラウィ(中央調査所)に送られた。

タエはマエケラウィで3ヶ月半の間独房に入れられた。この期間中で彼が弁護士と話すことが出来たのは1996年7月に1度きりであり、その時も警備警察が同席しており従って個人機密の権利は守られなかった。彼はマエケラウィに収監されている間、彼の家族は食べ物を届けることは許されたが面会して話すことは許されなかった。マエケラウィではタエは肉体的に拷問されることはなかったが1日24時間中ずっと灯りを点けたままの独房に一人で閉じ込められ劣悪な扱いを受けた。本も新聞も、その他の読み物もラジオも与えられなかった。

1996年7月の終わりに、タエは法廷に出廷したが裁判は何度も休廷され、保釈は拒絶された。1996年8月にタエは正式に政府に反する武装共謀の罪に問われた。1996年9月にタエは最終的にアジスアベバにあるカルチェレ刑務所に移送された。

カルチェレ刑務所に着いて間もなく、タエは両手首に南京錠のついた30センチある重い鎖の手錠をかけられた。最初のうちは手錠は朝と夜に着替えをするために1日に2回、15分間だけ外された。

タエは1996年10月25日の公聴会で彼の劣悪な処遇に対して身を守るために法廷に不服を申し立てた。タエの裁判を担当した筆頭裁判官ハゴス・ウォルドゥ氏は刑務所の管理権限は無いが、本件について調査をすると明言した。しかしタエが裁判所から刑務所に戻った後すぐに刑務所役人は彼に手錠を掛けた。彼に苦痛を加えるのが目的の手錠は、その後1日1回、15分だけしか外されることはなかった。

1997年のある日、その手錠は外された。しかしながら刑務所役人による嫌がらせは続き、タエは繰り返し脅迫され死の恐怖を味わっていた。エチオピア教員協会に対する抑圧も続けられており、協会の副書記官アセファ・マル将軍が1997年5月に暗殺されるという事態が生じ、抑圧はまたもピークに達していた。生命の危険を感じたゲモラゥ・カサ書記官は国外に脱出して英国に亡命した。

タエの裁判は遅々として進まなかった。タエに対する起訴の大半は証人の発言によるものであったが、証人はそれは拷問によって証言させられたのだと発言を取り消していた。タエの家、事務所、そしてナザレスにあるタエの父親の家も捜索されたが武器や証拠物件は何一つ発見されなかった。拷問により強制された自白以外には検察当局はタエの罪状に関する証拠を何一つとして提出しなかった。

1998年7月28日、タエは再度出廷した。その場で彼は刑務所の警備員が彼に対して嫌がらせを続けており銃殺すると脅迫していると訴えた。裁判官は法廷侮辱だとタエを糾弾し、9月15日の次回裁判に出廷するまで手錠を掛けたままでいるようにと命令した。

タエの手錠は9月28日に外された。1998年8月に国際アムネスティがタエの代理として彼が受けた残酷かつ非人道的な下劣な扱いに対して緊急抗議を提出したのである。タエは1998年に国際教育連盟人権賞を受賞し、エチオピア・レビュー誌で「本年度最も注目された人物」と称された。

1999年にタエは法廷に何度か出廷したが裁判は常に延期された。タエと一緒に被告人とされていたケベデ・デスタの病気がその理由であった。ケベデは1999年6月3日に獄中で死亡した。6月10日にタエは国家転覆共謀者と判断され、15年の刑期を言渡された。

 


新曲「ルワンダの歴史を繰り返さない」ソロモン・テカリグ
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