人権状況−2002年
2002年、エチオピアの人権状況に改善は見られなかった。南部では、むしろかなり悪化しており、例えば、警察が民間人の集団に向けて発砲し、大勢の人が逮捕された。恣意的な逮捕が行われているのは南部だけではない。逮捕された人々は、国際的な基準を満たさない刑務所に入れられ、オロミヤ地方州(Oromiya regional state)などでは、拷問される囚人もあった。裁判所は人権侵害を止めるための介入をほとんどせず、議会に至ってはまったくそのような行動をしない。活字メディアの活動は許可されているが、しばしば脅迫が行われている。メレス・ゼナウィ首相の率いる、連立与党エチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian Peoples' Revolutionary Democratic Front EPRDF)が、引き続き連邦政府、州政府を強力に支配している。各地の選挙は、威嚇と不正に支配されている。EPRDFは司法権も支配している。
南部部族国家・部族・民族(the Southern Nations, Nationalities, and peoples SNNP)地域州のテピ(Tepi)とアワサ(Awassa)では警察による暴力のために100人以上の人々が亡くなり、数百人が逮捕された。テピでは3月、シェコ(Sheko)とマジェンガー(Majenger)という2つの少数民族の人々が、政治的な権利を巡って、地元の官僚や警察と衝突した。報道によれば、なたで武装していた民間人もあったとのことだ。少なくとも民間人が18人、地元の官僚が1人死亡した。翌日には地元当局の命令で百人以上が殺害され、村が破壊されて、5800人ほどが家を失った。騒乱の後約1000人が逮捕され、6月に外交官の代表団が訪問したときには、269人がまだ拘留されていた。
アワサの町では、5月24日、町の行政的地位の変更に抗議する農民に対して、マシンガンを持った兵士が武装車上から発砲した。政府は17人が死亡したことを認めたが、独立系の情報筋によると、25人が殺され、26人が負傷した。
また警察は、3月と4月に、エチオピアで最も人口の多い州であるオロミヤで、非武装の学生集団に向かって発砲した。政府の教育経済政策に抗議する集団に対し警察が発砲し、5人の高校生が死亡、10人を超える人々が負傷したことを、州政府も認めている。オロミヤ州議会は、政府が非殺傷性の群衆制圧器具を購入する資金がないと主張し、警察の手法が正当だったとしている。
その後警察は、オロモ解放戦線(Oromo Liberation Front、OLF)のメンバー、あるいはシンパだとして、何百人もの学生、教員などを逮捕した。政府はオロモ解放戦線が学生の抗議運動を扇動したと言っている。6月には70人の児童・生徒を含む300人以上が、デンビドロ(Dembi Dolo)で投獄された。これらの人々と、アジスアベバから130キロ西方にあるアンボ(Ambo)の町で拘留された人々の一部が拷問を受けた。これらの囚人のほとんどは、逮捕から2ヶ月後に保釈された。政府は、教員と公務員を停職処分にした。
政府は、上記の事件や、2001年4月のアジスアベバ大学でのデモで40人が殺された事件など、同様の事件で民間人を殺害したとされる警察を裁判にかけていない。連邦政府は、2002年8月、アワサまたはテピでの暴行に関与したとして、10人の官僚を逮捕した。しかし彼らが抗議運動を抑えるのに過剰な暴行を働いたために逮捕されたのか、民間人に抗議行動をするよう勧めたから逮捕されたのかさえも明らかになっていない。
特にオロミヤでは著しい人権侵害が続いている。10年前に政府がOLFを禁止してから、OLFのメンバー、またはシンパとされた数千人の人々が逮捕されたが、その状況は2002年も変わっていない。(オロモス族はエチオピアの全人口のうち40%を占める最大の民族集団である。)3月の時点で、チンビ(Chimbi)中央刑務所には1700人以上の囚人がいると報告されており、そのうち半分は最近逮捕された人々で、残りは5年から10年も拘留されており、中には起訴事実も不明の人がある。この他、数百人以上がオロミヤ州全土の刑務所や、警察の拘置所に拘留されている。釈放された囚人や、逃亡した囚人は、刑務所では激しい拷問が行われていると報告している。5月にエチオピアを脱出したオロミヤ州能力開発担当大臣によれば、州政府は、オロモ族の人々が全員OLFを支援していると無差別に嫌疑を掛けている。
政府は、教育政策の変更を批判し、非合法化されたエチオピア教員協会(Ethiopian Teachers' Association ETA)を支援した教師への弾圧を続けている。ETAの会長テイエ・ウォルデ・スミアテ(Taye Wolde Semayat)氏は、控訴審で、すでに服役した刑期よりも短い刑期を言い渡され、2002年5月に釈放された。彼は投獄されていた6年間に、悪臭の漂う独房で足かせをはめられていた時期もあった。(テイエは政府の転覆を企てたとして有罪になったが、事情を知っている第三者は、この容疑がでっち上げである、と述べている。)政府は同じ名前の傀儡組織を作り、もともとの団体の資金を押収し、事務所の一部を封鎖したが、ETAは教師の権利を守るための活動を継続した。5月には、センダファ(Sendafa)で、ETAを支持した7人の教師が逮捕され、でっち上げの事実で2ヶ月間拘留されたほか、全ての人々のための教育と、HIV/AIDSに関する教育に関するETAの2月会合に出席した教師40人以上が、帰宅したところを逮捕され、2週間拘留された。8月から10月にかけて、当局はETAの会合を許可せず、警察は会合を妨害し、解散させた。政府関係者は、教師達に対し、ETAとの関係を切らなければ、解雇、または給与の支払いを停止すると脅迫した。
アジスアベバでも地方でも、刑務所の条件は厳しい。医療は単純なものしかなく、1日あたりわずかの囚人に割り当てられるだけである。AIDSに感染している囚人は治療を受けられず、元囚人達は、結核などの重病で死亡した囚人があると報告している。囚人は、入浴設備、マットレス、毛布などを与えられない。2002年に釈放された人々は、刑務所内は非常に混雑しており、囚人は交代で眠らなければならないほどだった、と述べている。食事は貧しいものではあるが、何とか足りている。家族が近くに住んでいる場合は、家族からの差し入れが許されるのが普通である。5月、国際赤十字委員会は、治安維持の理由で勾留されている人々4800人と接触したと言っている。
司法は相変わらず人権侵害を止めることはできないし、そうする意思もない。5月に、連邦政府能力開発担当大臣は、司法制度が遅れていて、憲法上の権利を保障することができていないことを認めている。警察や検察が拘留のための正当な根拠も示さないのに、裁判官が釈放を拒否することが多い。警察が捜査できるように、審理が2週間中断することもあった。裁判所が囚人の釈放を命じることもしばしばあったが、これは裁判所の管轄の異なる場所で、1?2日のうちに再逮捕することが目的であった。例えば、6月上旬、警察は車でOLFの文書を運んでいたという容疑で、アジスアベバの女性実業家ディンキネシュ・デレッサ・キリティラ(Dinkinesh Deressa Kilita)を逮捕した。彼女は2ヶ月に渡って、数回出廷したが、その後裁判所は証拠不充分で彼女の釈放を命じた。保釈されて2日後、彼女は別の地方で再逮捕された。10月の段階で彼女はまだ拘留されている。
保釈の認められない犯罪の場合、囚人は犯罪捜査中数年に渡って投獄されている。2001年、議会は、汚職事件の被疑者に一切保釈を認めないという法律を制定した。この法律はすぐ、元防衛大臣で、メレス首相の主要な政敵であるサイエ・アブラハ(Siye Abraha)に適用された。彼と、いわゆる彼の共犯者達は逮捕後1年経過した2002年10月まで、出廷させられなかった。7月には担当の裁判所が、検察に起訴事実の変更を命じ、更に進行が遅れた。2001年に汚職事件で逮捕された実業家達も、裁判を受けないまま拘置所で暮らすことになった。
長期の拘留を受けている人々の中で、最大のグループは、大量殺人、人道に対する罪などの重大な罪で起訴されている、デルグ前政権関係者である。2002年にはデルグ政権の官僚数十人が裁判を受け、3分の1が有罪になった。まだ数百人が10年以上拘留されて裁判を待っているが、連邦裁判所は、2003年9月までに裁判を終了させることができるといっている。
警察と裁判所が、子どもと女性の権利を守るための法律をこれまで以上に真剣に執行しようとした事例もある。とりわけ、子どもを強姦した男性を逮捕し、有罪が確定すると、刑を執行するための努力をするようになった。アジスアベバでは、各警察署に女性警官が2名ずつ配置された。しかし女性団体は、成人が強姦の被害を通報しても警察は捜査せず、起訴には1年以上かかり、一番刑の軽い違反で処理されてしまう、と批判している。
民間の活字メディアは活動を許されているが、定期的に脅迫を受ける。首相は、新聞のことを違法な政党の機関誌だと決めつけ、情報担当大臣は、これらの新聞が憎悪による政治を行っていると批判した。7月にはある週刊誌の編集者が、名誉毀損と、虚偽の報道で2年の懲役刑を受けた。2002年初頭には、別のジャーナリストが10ヶ月の投獄後、2000ドルで保釈された。彼は、国営なめし革工場の経営上の問題と、前将軍が政権の崩壊の迫っていることを予測したという記事を書いた後、暴力扇動の容疑で逮捕された。他にも、記事が原因で短期間拘留され、保釈されたジャーナリスト達がいる。3月には、あるジャーナリストが、米国で、米国人スピーカーが、現エチオピア政権はデルグ政権と同じくらい悪いと述べたことを引用した記事を書いたために、1400ドルの罰金刑を受けた。どの例でも、政府は、名誉毀損、誤報、扇動を犯罪とする、デルグ時代のマスメディア法を引っぱり出してきた。政府は新しいマスメディア法と倫理規則の草案を作成しているところだが、独立系のあるメディアは、新法の法が現在の法律よりも制約と介入が多くなるだろうと心配している。
2001年12月、ティグライ(Tigray)で唯一の新聞の編集者が逮捕された。州裁判所が彼女の釈放を命じ、起訴を却下すると、彼女は新聞社を閉鎖し、国を脱出した。アジスアベバの民間のメディアは、首都以外では流通していない。その原因の一つは輸送の問題だが、もう一つの原因は、非政府系の新聞を持っていると、各地の当局者からの疑惑の目を向けられるからである。政府は唯一のテレビ局と、連立政府の主要政党であるティグライ人民解放戦線(Tigray Peoples' Liberation Front TPLF)が所有するFM局以外のすべてのラジオ局を所有している。政府は、別の人々が放送局を設立することを認めると定期的に言っているが、それを実現するための立法措置は進んでいない。
政党の存在は認められているが、特に地方レベルではしばしば活動妨害がある。2001年12月、南部部族国家・部族・民族(SNNP)州の野党勢力は、自分たちの候補者が投票を阻まれ、与党支持者に妨害されたとして、地域の選挙をボイコットした。南部エチオピア人民民主連合(South Ethiopian People's Democratic Coalition SEPDC)会長で、連邦議会の数少ない野党議員の1人であるベイェネ・ペトロス氏は、全国選挙管理委員会が、選挙管理人として政府官僚や与党のメンバーを派遣したことを批判した。選挙管理委員長はこの批判が不当だとして、ベイェネ氏を告訴すると脅した。2002年3月、与党職員として知られる人々が、エチオピア民主党(Ethiopian Democratic Party EDP)のアワサでの会合を混乱させた。この会合では、エチオピアとエリトリアの国境の変更(下記参照)を黙認する政府の姿勢に対する批判が行われていた。会合の場にいた警察は、介入しなかった。
1998年から2000年のエリトリア、エチオピア間の国境を巡る戦争後の問題は尾を引いている。2002年8月、エリトリアは、279人のエチオピア人戦争捕虜を引き渡し、これですべての捕虜を返したと発表したが、エチオピア政府は、エリトリアが、まだ秘密の場所に捕虜を収容していると批判した。エチオピアは、まだ行方不明の警察官と軍人73人、及び1998年に飛行機が打ち落とされた後エリトリアの首都の道路で示威行進をしたパイロットに関する情報を要求した。エリトリアは戦争捕虜を引き渡すと約束したにもかかわらず、2002年10月の時点で、約1300人が拘束されている。エリトリアから退去させられたエチオピア系の人々は、現在も、エチオピア国内各地の14のキャンプで厳しい生活を送っている。エチオピア政府はこのうち3つのキャンプを閉鎖し、住人を追い出し、他のキャンプについても同様の計画を発表した。
信頼できる情報筋によれば、エリトリア政府は、スーダンからエチオピアに侵入しようとしているOLFのゲリラと、エチオピア現政権に反対するティグリア人の集団に、物資、訓練、武器などの援助を行っている。
人権を守る活動
最も卓越した人権活動グループであるエチオピア人権評議会(Ethiopian Human Rights Council: EHRCO)は、テピ、アワサ、オロミヤで行われた銃撃と逮捕、ストリートチルドレンが捕まえられ遠くの森林に放り出された事件、エリトリアから退去させられた人々に対する虐待など、2002年の人権侵害について多くの報告を行っている。大学生の紛争を扇動したとして逮捕され、2001年に保釈されたEHRCOのメンバーは2002年、定期的に出廷しているが、事実審理は現時点では始まっていない。2001年にはEHRCOと同様一時閉鎖させられたエチオピア女性法律家協会(Ethiopian Women Lawyers Association、EWLA)は、2002年には目立った政府の介入を受けていない。人権同盟(Human Rights League)は、相変わらず登録を認められていない。
憲法とその他の法律によって、議会は政府の権力乱用を調査する権限を与えられている。2002年、議会の委員会はこれらの監視機関の職員を任命することを求めたが、10月の時点で、そのような機関は設立されていない。
国際社会の役割
2000年にエリトリアとの戦争が終結すると、国際的な援助団体は、エチオピアに対し、援助を増やした。米国、EU、国連は、深刻な干ばつによって心配される民生への被害に対応する準備をしている。ほとんどの国際援助団体は、この紛争多発地域で、エチオピアの脆弱で相対的な平和を支え、テロとの戦争でエチオピアの協力を失わないことを選択し、人権侵害に口を閉ざしている。
国連と世界銀行
1999年12月の停戦協定の合意事項の一つとして設立された、中立の国境管理委員会は、4月に第一次報告書を発表した。この報告書では、開戦の地となったバドメ村の領土権などを含む(具体的な名前は挙げていないが)、エチオピアの主張をおおむね否定した。両国は当初委員会の決定を受け入れると発表したが、6月、エチオピア政府は、一方的にティグライ中部からバドメに210人を移住させ、この決定を無視した。10月の時点で国境管理委員会の指示に基づく実際の国境画定作業は始まっていない。
国連安全保障委員会は、停戦協定監視を行う国連エチオピア・エリトリア使節団(United Nations Mission to Ethiopia and Eritrea UNMEE)の活動期限を2003年3月15日まで延長した。地元の民間人や軍人とUNMEE平和維持要員の間で激しい対立が時々ある他は、国境付近の情勢は落ち着いている。2002年4月、UNMEE司令官が外国人ジャーナリスト達をエリトリアからバドメまで車で運ぶということがあった後、エチオピア政府は彼が中立ではないとして批判し、その後彼との会合を拒否した。国連は10月にこの司令官を交代させた。
国連緊急部隊は、2月に、東部ティグライなどいくつかの地域は、まだ地雷があるために人が住めない状態だと報告した。エチオピアでは地雷の撤去作業は始まっていないが、2つの撤去会社が訓練を受け、調査が一部開始されている。何ヶ月間も催促されて、ようやく4月、エチオピアはUNMEEに対し、エリトリアに埋めた地雷の詳細な地図を提供した。前年と比較すると、地雷や不発弾による死者や負傷者の数は大きく減少した。それでも、6月から8月の間だけで、11件の爆発があり、12人が負傷し、4人が死亡した。
エチオピアは、2002年、世界銀行と西側諸国から債務救済措置を受けることができ、2021年までに全額返済した場合と比べて、9600万ドルが軽減された。この際の合意事項として、エチオピアは、税制改革、民営化、防衛費減削減、銀行部門の改革を義務づけられた。この債務救済措置も、103億ドルというエチオピアの対外債務推定額の10%でしかない。
米国
エチオピアはスーダンとソマリアに国境を接するという戦略的な位置にあるため、米国主導の「テロに対する闘い」において前線となり、2002年には国際的な立場が強くなった。この文脈の中で米国はエチオピアに対し大量の軍事援助を提供した。しかし米国は、民間人に対する銃撃など、人権侵害で批判されている治安維持軍にその責任をとらせるための圧力をかけていない。米国国務省高官の1人は、アルカイダを掃討するためには、米国はエチオピアに頼らなければならないので、エチオピアに対しては実質的には何らの影響力も行使していないと言っている。米国の経済援助と人道援助は、1億7000万ドルにのぼり、そのうち3分の1は、教育、医療、行政に、残りは食料と緊急援助に振り向けられている。
EU
EUは6月に、テピとアワサでの暴力行為を批判し、調査を求める声明を発表した。EUは、エチオピア警察に対し、殺傷兵器よりも緩やかな方法で騒乱をコントロールするための研修を提供することを拒否した。エチオピアが責任を持ってそのような援助を活用することができないだろうというのがその理由である。(かつてエチオピアは、英国政府が寄付した車輌を、1997年にETAの指導者アセファ・マル《Assefa Maru》の暗殺に利用するなど、提供された援助を人権侵害に使ったことがある。)2002年、EUと加盟国は、6000万ユーロ(5910万ドル)の人道援助を提供した。
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